2008年7月10日木曜日

ヴェラ

授業で発表したフランス語の短編小説の和訳を、折角だから載せてみようと思う。
訳したのは、Villiers de L’Isle-Adam 著、Véra の冒頭部分。
原文を掲載しているサイトもある: http://aliquid.free.fr/spip.php?article2891

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『ヴェラ』

   オスモワ伯爵夫人に捧ぐ

   「肉体にとって、其の中身より外形の方が本質的である」――近代生理学

愛は死よりも強いとソロモンは言った。 そう、其の不可思議な力に限りは無い。

数年前のパリ、秋の夕暮れでの事だった。
陰鬱なサンジェルマン街の方へ、帰りの遅くなった馬車の灯りが点々と流れていた。
其の内の一台が、数世紀を経た庭園に囲まれた或る邸宅の前に止まった。
入口のアーチの上にはアトル伯爵家の紋章――青地に銀の星、「蒼白な勝利」の文字、
其の上には、ボネットを頭に載せたオコジョの柄で縁取られた王冠――が威厳を示していた。

館の重厚な扉が開かれると、車から男が降りた。
年の頃三十五、六。 喪服を身に纏う其の顔は今にも倒れそうな程、色を失っている。
玄関前の段で、押し黙った召使達が松明を掲げている。 彼らには目も遣らず、
這い上がる様に段を踏んで館に入った、其の男こそアトル伯爵であった。

伯爵はふら付きながら白い階段を上がる。 其の先の部屋には正に其の日の朝、
彼が、ビロードと菫(すみれ)を敷き詰めた棺に、波打つ麻布に包んだ逸楽の夫人を、
次第に消え行く誓いの人を、ヴェラを、彼の絶望を横たえたのだった。

上で扉が音も無く開かれた。 彼は覆いの布を掛けた。
部屋の物は何もかもが、前日、夫人が残した通りになっていた。 唐突な死が襲ったのである。
昨夜、彼の愛する妻は深い快感の中、甘美な抱擁に我を忘れ、恍惚に心を打ち砕かれて失神した。
夫に別れのキスをする間も無く、微笑みながら、一言も発する事無く、一瞬で唇が血の紅に染まった。
そして長い睫毛が、黒いベールの如く、美しい双眸の闇夜を覆った。

言葉にし難い一日が過ぎた。

昼頃、地下墓所でのおぞましい儀式が済んだ。
アトル伯爵は付き添いの者達を墓地から引き取らせると、一人、彼の妻と共に、
大理石の壁に四方を囲まれた霊廟に閉じ篭り、鉄の扉を引いた。
棺の前、三脚架の上で香がゆっくりと焦げていた。
ランプから発する光の環が若き故人の枕元に投げ掛けられていた。
彼は立ったまま物思いに耽り、希望無き愛情だけを抱いて其処に一日中留まった。

六時頃、日も暮れる頃になって其の神聖な空間を出ると、彼は扉を閉め直した。
乱暴に鍵を抜き取ると、入口の階段の端から背伸びをして、其れをそっと墓の中に抛り入れた。
鍵は扉の上の三つ葉模様を通って中の敷石の上に落ちた。
何故こんな事を? もう戻って来る事はあるまいという謎めいた決意によって。

そして彼は今、主を亡くした部屋を再び見ている。
大きな襞を取ったカーテンは薄紫のカシミヤに金の刺繍。
其の下に開かれた十字型の枠の窓からは、夕方の最後の光が筋となって射し込み、
古い木の額に収まる、今は亡き人の肖像画を照らしていた。
伯爵は視線を其の周りに巡らした。 前日、肘掛け椅子に投げ捨てられたドレス、
暖炉の上の宝石に真珠の首飾り、中途半端に畳まれた扇子、香水の小瓶…。
もう其の香りを彼女が嗅ぐ事は無いのだ。 乱れた儘の黒檀のベッドの上、
愛くるしくも崇高な頭が載せられていた事が見て取れる枕の傍らに、
彼は血の滴りに赤く染まったハンカチを見た。 死の直前、若き魂が翼を打った痕跡である。
開いたピアノは永遠に完成する事の無い旋律を保っている。
彼女が温室で摘んだインドの花は、ザクセンの古い花瓶の中で枯れ掛けている。
そしてベッドの足元、黒い毛皮の上には小さなミュールが一足。
ビロード生地の上にはヴェラの可笑しげな言葉が真珠で縫い取られている: 「ヴェラを見れば恋をする」
彼女の足が、歩く毎に中に敷き詰めた白鳥の綿毛にくすぐられていたのは、つい昨日の朝だったのだ!
其の向こう、暗がりに置かれた置時計は、伯爵にバネを壊されていた。 もう二度と時を刻まないように。

ヴェラは逝ったのだ! では一体何処に!……今この瞬間、生きているのか。 何をしに…。
不可能だ。 愚かしい。 そうして伯爵は未知の思索に自らを沈めていった。

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