2017年11月28日火曜日

それナッジじゃなくない?

日本経済新聞(2017年11月25日朝刊)をパラパラめくっていたら、慶應義塾大学の土居丈朗氏が、一般向け経済誌に最近掲載された主な話題(自由貿易、マクロ経済活性化策、行動経済学)を概括した記事を寄稿していました。

行動経済学に関してはナッジ(nudge)無作為化比較対照試験の2テーマを扱っていますが、このうちナッジについては何故か、その代表的な応用事例を挙げてナッジがどういうものか説明するのではなく、ナッジの無力さを指摘した京都大学・依田氏の社会実験のみを紹介しています。概括記事としてはバランスが悪いですね。

ネタ元の『週刊東洋経済』2017年11月25日号を手に取ってみましたが、行動経済学の特集号であるこちらは日経の記事と違い、各種ナッジの成功事例を取り上げ、その後で「しかし効かないナッジもある」と依田氏の社会実験を付け加える穏当な構成でした。

そしてその社会実験ですが、東洋経済に掲載された依田氏自身の説明
  • 依田高典「人間の行動はそう簡単には変わらない〜効かないナッジがある理由」『週刊東洋経済』2017年11月25日号 pp.48–49
に拠れば、東日本大震災後の電力供給が逼迫していた時期に、どうすれば節電に協力してもらえるか、京都の700世帯を実験台にして効果的な手法を探ろうとしたもので、発電費用に応じて電気代を引き上げる介入と、節電要請メッセージ(「電力の使用をお控えください」)を送る介入を試したとのことです。

依田(2017)は後者の要請メッセージが「ナッジに相当する」と主張し、その効果が薄れてしまったことから、ナッジは効かないと主張しています。が、


それ、本当にナッジ?




そもそもナッジとは?


そもそもナッジとはなんでしょうか? ナッジを社会に広く知らしめる立役者となったセイラー氏の著書、Nudge から定義を引きます。

Thaler, R. H. and Sunstein, C. R. (2008). Nudge—Improving Decisions about Health, Wealth, and Happiness. Yale University Press.

p.6
A nudge, as we will use the term, is any aspect of the choice architecture that alters people's behavior in a predictable way without forbidding any options or significantly changing their economic incentives. To count as a mere nudge, the intervention must be easy and cheap to avoid. Nudges are not mandates. Putting fruit at eye level counts as a nudge. Banning junk food does not.
ナッジとは、いかなる選択肢も禁止せず、大きな経済的インセンティブにも依らずに人の行動を変化させるチョイス・アーキテクチャーです。

ここで言うチョイス・アーキテクチャーは Nudge に出てくる用語で、

Thaler, R. H. and Sunstein, C. R. (2008, p.3)
A choice architect has the responsibility for organizing the context in which people make decisions.
と説明されています。

個人が何か判断したり選択したりする時には、その行為の文脈・環境に(知らず知らずのうちに)影響を受ける。例えば、店の中で目に付きやすい所に置いてある商品は自然と手に取る人が多くなるし、皆がしていることと聞けば自分もそうしてみようと思う——

そうした意味での文脈を人為的にデザインしたものがチョイス・アーキテクチャーです。そして或るアーキテクチャーが人の行動を、狙った方向へうまく誘導できるなら、それがナッジです。

(もう少し補足すると、設計者が誘導しようとしている方向とは異なる選択肢も容易に選べることもナッジの要件です。)


交差点の手前の導流帯(中央の斜めゼブラ)はナッジと言えそう。
直進車が誤って右折レーンに入ってしまうのを防いでいます。
(2015年11月にさいたま市の県道215号で筆者が撮影)


経済学+心理学


重要なのは、ナッジが心理学という、従来の経済学に欠けていた知見を活かしているという点です。人の心理にはさまざまな特性があり、それが合理的な判断(ダイエットや禁煙や貯蓄など)を妨げている。ならば、それらの心理特性を逆手に取ってうまく使いこなせば、個人が望ましい意思決定をする手助けができるだろう。それを実証したのが上に引用したセイラー氏の功績であり、ノーベル経済学賞の受賞理由の一つです。

Nobel Media AB. (9 Oct. 2017). “Press Release: The Prize in Economic Sciences 2017”. Nobelprize.org. Available at https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/laureates/2017/press.html (Accessed: 27 Nov. 2017).


先に引用したセイラー氏の著書、Nudge でも種々の心理特性について、具体的なナッジ応用事例も交えながら詳しく説明しています。

まとめると、
  • 個人の行動を望ましい方向に誘導するために
  • その行動に影響を与える文脈を
  • 心理学の知見を活かして
  • 人為的にデザインすること
  • (そして望ましくない選択肢も自由に選べるようにしてあること)
がナッジの勘所ということですかね。


依田氏の「ナッジ」は本当にナッジ?


これを念頭に依田氏が「ナッジ」と呼ぶ「電力の使用をお控えください」というメッセージを見ると、何の工夫もなくド直球に指示しているだけです。これのどこに心理学が活かされているんでしょうか。むしろ、ナッジと対置される旧来の手法の典型例なのでは?

出典:依田 高典(2016)「スマートグリッド・エコノミクス〜フィールド実験・人間心理・ビッグデータが切り拓くエビデンス・ベースド・ポリシー」『第26回東京大学エネルギー工学連携研究センターシンポジウム「エネルギー需要を科学する」』p.14


東洋経済の誌上で依田氏が心理学的な説明をしているのは、メッセージの効果が薄れたことについてだけです(依田, 2017):
メッセージを受け取った当初は節電をしてくれるが、やがて刺激に慣れて、効果がなくなってしまった。これを心理学では、「馴化」と呼ぶ。
そしてメッセージについては、
節電要請のメッセージは、それを見た人の意識を変え、節電するという行動変容を起こそうと狙ったナッジだ。
との認識を示し、実験結果から、
メッセージによるナッジの効果は小さく、しかも持続しないことが証明されたのだ。
と結論付けていますが、なぜそれをナッジと呼べるのかは説明していません。

これだと、単純な「お控えください」メッセージを送るだけではナッジにならないと証明しているだけのように思えます。


なぜか活かされていない先行研究


実は、依田氏が節電実験を行なった2012年より5年も前に、同じく節電をテーマにしたナッジ実験の論文が発表されており、

Schultz, P. W. et al. (2007) ‘The Constructive, Destructive, and Reconstructive Power of Social Norms’, Psychological Science, 18(5), pp. 429–434. doi: 10.1111/j.1467-9280.2007.01917.x.
Available at http://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1111/j.1467-9280.2007.01917.x

それが Nudge にも取り上げられています(Thaler, R. H. and Sunstein, C. R., 2008, pp.68–69)。Nudge 本文中の説明を掻い摘んで訳すと、
  • 実験対象世帯に、前週の電力消費量と、近隣地域の平均電力消費量を通知した。
  • 平均より消費量が多かった世帯では通知後、電力消費が減った。
  • 平均より消費量が少なかった世帯では通知後、電力消費が増えてしまった。
というもので、人は他者の行動に影響されやすいという心理が利用されています(ちなみに、平均より消費量が少なかった世帯でも、通知に加えて満足顔のemoticonを送付すると翌週以降の消費量が増えなかったとの結果も同時に出ています)。


2017年12月11日追記{
また、依田氏自身の論文(Ito, Ida and Tanaka, accepted)も、近隣世帯との比較を送付して省エネを促したアメリカの調査(Allcott and Rogers, 2014)を引用しています。

調査対象世帯に配布されたエネルギー消費レポート(画像は部分)
出典:Allcott and Rogers (2014, p.51)


調査対象世帯に配布されたエネルギー消費レポート(画像は部分)
出典:Allcott and Rogers (2014, p.52)

他国で有効性が確認された手法を追試して、日本社会でも同じように効くかどうかを検証するだけでも研究として十分有意義だと思うのですが、依田氏の実験(Ito, Ida and Tanaka, accepted)はこれら先行研究の手法を使っていませんし、それよりもっと巧みなナッジを独自に考案しているわけでもありません。


Ito, K., Ida, T. and Tanaka, M. (accepted) ‘Moral Suasion and Economic Incentives: Field Experimental Evidence from Energy Demand’, American Economic Journal: Economic Policy, -(-). doi: 10.1257/pol.20160093. Available at http://home.uchicago.edu/ito/pdf/Ito_Ida_Tanaka_MoralSuasion_EconomicIncentive.pdf

Allcott, H. and Rogers, T. (2014) ‘The Short-Run and Long-Run Effects of Behavioral Interventions: Experimental Evidence from Energy Conservation’, American Economic Review, 104(10), pp. 3003–3037. doi: 10.1257/aer.104.10.3003.



一方、コスタリカで2015年にSchultz, P. W. et al. (2007) と似た手法を用いた節水実験が行なわれ、有効性が確認されています。

Zoratto, L. et al. (2015) ‘A behavioral approach to water conservation: evidence from Costa Rica’, World Bank Policy Research Working Paper Series, 7283. Available at https://www.researchgate.net/publication/280043808_A_behavioral_approach_to_water_conservation_evidence_from_Costa_Rica (Accessed: 27 Nov. 2017).

実験対象の世帯に配布された、近隣地区に比べて水消費量が
多かったか少なかったかを知らせるステッカー
(出典:Zoratto, L. et al, 2015)

この節水実験は前述の『週刊東洋経済』の特集号でも紹介されていた事例の一つなんですが、なぜ同誌の編集部は、同じライフライン分野の優れたナッジを載せておきながら、それとは同列に語れない研究を反例として掲載する判断をしたんでしょうね。編集のセンスを疑います。


2017年12月11日追記{

なぜ見当違いの反論を載せたのか


依田氏がナッジ万能論に対する反証として持ち出した自身の過去の研究ですが、そのプレゼンテーション資料(依田, 2016)を見ると、どうやらこれは、ナッジの有効性を検証しようと企画した実験ではなかったようです。

東洋経済の記事からは、過去の研究を掘り返してナッジに疑問を投げかける根拠として強引に解釈し直したという雰囲気が感じられます。何にせよ、異論を唱えるならもっとマシな材料を用意してからにしてほしいところ。


ダークナッジという別の問題もあるが……


万能感のあるナッジですが、強力であるが故に悪用の問題も指摘されています。

消費者に判断を誤らせ、不当に利益を得ようとする民間の戦略で、dark nudge、evil nudgeなどと呼ばれています。

‘Dark Nudges’ (2013) dark side of the nudge, 19 April. Available at: https://darksideofthenudge.wordpress.com/2013/04/19/dark-nudges/ (Accessed: 11 December 2017).

日本では携帯電話の契約プランやスマホゲームのガチャなどが一例と言えそうです。

詰まるところ、行動経済学そのものは善悪の指針を持っておらず、ナッジが天使の囁きになるか搾取の道具になるかは使う人次第ということなんですが、これは節電という公益目的の分野にはあまり関係ないですね。