方言がトリックに使われていると聞いて、
松本清張の『砂の器』(新潮文庫版)を手に取った。
東京からは丸っきり正反対の方角、
夜行列車に一昼夜も乗るような距離の二地方が
偶然そっくりなアクセントを持っている
という事実が確かに織り込まれている。
さぞ、新聞連載当時の読者を驚かした事だろう。
ところで同作の刊行は昭和36年。もう50年近くも前だ。
社会インフラも価値観も今とは懸け離れていて、
犯人を追う刑事の捜査も信じられないくらい
人力な方法が多く、当時の読者よりも現代の読者の方が
その努力・忍耐に驚嘆するのではないかと、
読みながら余計な事を考えてしまう。
(直前に読んだ小説が西尾維新の
『りすか』シリーズだったので余計に。)
他にも随所に時代色が感じられる描写:
――国電、公共の場で喫煙、亭主関白、部屋着は着物、
引越しの荷物が行李、30代の登場人物が戦前生まれ…。
言葉遣いにも古めかしさが残り、推理の鍵である
方言よりも寧ろ共通語の過去の姿に注意が向く。
読みながら用例を採取してしまった。
折角なので、採取した用例が死語と化したか、
それとも依然、命を永らえているのか、
大雑把だが、google で検索してみた。
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上巻 p.5「店を入ると」
"店を入る" 316000 件
"店に入る" 28400000 件
無いだろうと思っていたが、随分と多い。
英語の enter に毒されたのではと勘繰ってしまう。
下巻 p.79「そのアパートを引っ越すんだ」
"アパートを引っ越す" 76400 件
"アパートに引っ越す" 33500 件
これは驚いた。「を」が標準なのだろうか。
「引っ越す」は移動を表す動詞とばかり思っていたが、
寧ろ「住む家を変える」と捉えた方が近い?
以下の用例は全て下巻から。
p.90「どんなにくやしかったかしれませんわ」
"どんなに悔しかったか知れ" 2 件
"どんなに悔しかったかしれ" 3 件
"どんなにくやしかったかしれ" 5 件
「しれない」と「しれません」が両方
引っ掛かる様に途中迄で検索したが、
それでもこの結果。最後の「平仮名のみ」で
見つかった5件は全て青空文庫の『家なき子』。
p.90「君のわがままに従っていてみろ。
ぼくたちは、かえって悲劇的になっている」
google では検索し難いので省略するが、
今、こんな言い方をするのだろうか。
文脈からは現在完了の反実仮想らしいが…。
p.91「責任?」関川は、恵美子を
不快そうに眺めた。「どう言っているんだ?」
「両親はどう言っているんだ?」などの文脈ではない。
今なら「何を言っているんだ」と言う所。
過去には2人称用法が有ったのか、それとも
逆上したキャラクターを描写する為に敢えて?
p.116「ボックスには客がいっぱいだった。
はやる店らしい。」
"流行る店" 19700 件
"はやる店" 4810 件
"流行ってる店" 277000 件
"はやってる店" 146000 件
"流行っている店" 176000 件
"はやっている店" 62100 件
「ている」形が普通だろうと思ったが、「する」形も無くはない。
それでも用例を見れば「将来流行る」とか
「こういう店が流行る」といった特殊な物が混ざっている。
全体的には漢字表記が多数派の様だ。
p.117「恵美子さんは、昨日かぎりで、店をよしました」
"店をよす" 2 件
化石的に残っていた。しかし用例を見ると、
「六年間続けた小さな店をよすことにしたのである。」
「自分の男の子がおりましても、自分のあとを継がずに、
どこかの会社につとめていってしまって、店をよすという者は、」
どちらも「よす」のは経営者であって、従業員ではない。
"店をよし" 2 件
連用形でも検索してみたが、これも僅か。
「最安値店をよして、長期保証付きの
お店で購入して良かった♪」
「その店をよしてもいいなら」
後者の「店」は「今まで通っていた美容院」。
気になって全文を確認しに行ったら
美容院業界の裏事情が…。
p.144「なにしろ、驚きましたね」
"なにしろ驚きました" 285 件
そんなに有るのか。驚いた。
p.152「いったい、胎児が出た場合、母親のショックで分娩したのか、
胎内で死んでから出たのかを、われわれは見きわめます。」
これも google 検索し難いので端折ったが、
こういう副詞の用法変化は他にも多そうだ。
宮沢賢治や寺田寅彦の本でも見たような…。
p.168「どうして、それがわかりますか」
"どうしてそれがわかりますか" 10 件
"どうしてそれが分かりますか" 7 件
聖書の直訳あり、国語科の教案あり。
やはり普通には出てこないか。
p.169「関川さんのところに女の電話がかかってきて、
それを関川さんが書斎で話すのは、一人だといいましたね。」
「それ」は電話だから「電話を話す」で検索する。
"電話を話す" 1720000 件
"電話で話す" 1800000 件
まさか。五分五分とは到底信じられない。
一寸用例を見てみよう。
「電車の中で携帯電話を話すんじゃない」
「友人から電話を話すのが面倒で」
「電話を話すよりもショットメールの
為によく使われています。」
「とても騒がしいところで携帯電話を話す裏技」
「面識のない相手と初めて電話を話す時に」
「かかってきた電話を話す事もできますし、」
最初の用例があちこちにコピーされてヒット数を
水増ししているようだが、それにしても多い。
他は自動翻訳されたページや日本語会話講座の
ページの様だが、日本語ネイティブの日本人が
書いたらしい例も相当有る。
「電話を話す」か。
どういう意味構造を想定したら説明できるだろうか。