日本道路協会(1979)『立体横断施設技術基準・同解説』
歩行者優先ルールを無視した議論
車道の横断箇所を平面で処理するか、歩道橋を設けるかの判断基準を解説した節に次のような記述が見られます(マーカー強調は引用者)。
日本道路協会(1979, pp.7–9)
知覚反応時間(t)とは,横断者が左右の安全を確認し横断を開始するまでに必要とする時間である。前記の米谷,毛利,稲見の観測によると2.5±0.87秒となっている。また,I. T. E(米国交通工学会)の基準では,これを3秒としている。車道横断箇所では歩行者が待たされるという前提で議論しています。
しかし,横断者は交通の切れ目が生ずるまで道路上で待機しているのであるから,この間に判断を終了してしまうと考える方が合理的であろう。したがって,ここでは知覚反応時間は横断待ち時間に含めるものとし,t=0とした。
/* 中略 */
(2) 立体横断施設とすべき基準
歩行者等の横断所要時間Gの間,信号機によって自動車交通をしゃ断しても自動車交通にそれほど支障をあたえない場合,または交通流のあい間を見て横断者が安全に横断できる場合には,立体横断施設を設置するより,信号処理等平面で処理する方が望ましい。
① 横断者の待ち時間の限界
信号処理等の平面処理による場合,横断者にはGという横断所要時間が適当な時間間隔で生じなければならない。この時間間隔が長くなりすぎると横断者は待ちきれなくなって無理な横断をするようになるが,一般に待ち時間の限界は60秒程度と考えられている。
したがって横断所要時間Gの生じる時間間隔が60秒を超えるような場合,あるいは時間間隔を60秒とすると自動車交通が著しく阻害されるような場合には,立体横断施設の設置を考えるものとする。
しかし、無信号でも横断歩道のゼブラを引けば、横断歩行者が(横断中だけでなく横断しようとしている歩行者も)優先されます。
現行の「道路交通法」(マーカー強調は引用者)
(横断歩道等における歩行者等の優先)構文的に「その進路」がドライバーじゃなくて「歩行者又は自転車」に掛かってるように読めてしまうなあ。悪文。
第三十八条 車両等は、横断歩道又は自転車横断帯(以下この条において「横断歩道等」という。)に接近する場合には、当該横断歩道等を通過する際に当該横断歩道等によりその進路の前方を横断しようとする歩行者又は自転車(以下この条において「歩行者等」という。)がないことが明らかな場合を除き、当該横断歩道等の直前(道路標識等による停止線が設けられているときは、その停止線の直前。以下この項において同じ。)で停止することができるような速度で進行しなければならない。この場合において、横断歩道等によりその進路の前方を横断し、又は横断しようとする歩行者等があるときは、当該横断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。
/* 以下略 */
横断歩行者優先ルールは意外と新しい
但し、日本では昔から横断歩道で歩行者優先だったわけではありません。
「日本における道路交通法規の変遷」
なお、「信号機のない横断歩道における歩行者優先」というのは、現在「ほとんど守られない交通規則」の代表例のひとつとなっていますが、それも当然と言えば当然で、このオリジナル道交法では、そんな規則はありませんでした。この規則が道交法に入ったのは、昭和42年法126号改正のとき (第38条を書き換え。ただし、過失犯不処罰) で、その後、昭和46年大改正のときに過失犯も処罰されるようになりました。
「道路交通法 (昭和35年法105号)」(マーカー強調は引用者)
(歩行者の保護)この時点では、横断前の歩行者は待たされるルールです。
第38条 車両等は、交通整理の行なわれている交差点で左折し、又は右折するときは、信号機の表示する信号又は警察官の手信号等に従つて道路を横断している歩行者の通行を妨げてはならない。
2 車両等は、交通整理の行なわれていない交差点又はその附近において歩行者が道路を横断しているときは、その歩行者の通行を妨げてはならない。
(罰則 第120条第1項第2号、第122条)
「道路交通法 (昭和42年法126号改正後)」(マーカー強調は引用者)
(横断歩道における歩行者の優先)この改正で横断前の歩行者も優先対象に加わりましたが、ここでもまだ、対向車線側の横断歩行者は除外されています。
第38条 車両等は、歩行者が横断歩道により道路の左側部分(当該道路が一方通行となつているときは、当該道路)を横断し、又は横断しようとしているときは、当該横断歩道の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない。
2 車両等は、交通整理の行なわれていない横断歩道の直前で停止している車両等がある場合において、当該停止している車両等の側方を通過してその前方に出ようとするときは、当該横断歩道の直前で一時停止しなければならない。
3 車両等は、交通整理の行なわれていない横断歩道及びその手前の側端から前に30メートル以内の道路の部分においては、第30条第3号の規定に該当する場合のほか、その前方を進行している他の車両等(軽車両を除く。)の側方を通過してその前方に出てはならない。
(罰則 第119条第1項第2号の2、第122条)
やっぱりルール無視だった議論
さて、では『立体横断施設技術基準・同解説』は横断開始前の歩行者も優先対象とする法改正より前に発行された書籍だったのか。手元のコピーの奥付を見ると、
日本道路協会(1979, p.274)
昭和54年1月20日 初版第1刷発行初版第1刷の時点で既に法改正から10年以上経過しています。つまり、歩行者を待たせる前提での議論は、発行当時とっくに定着していたはずの交通法を堂々と無視したものだったという事です。しかも未だにその記述が修正されず残存しています。
平成9年1月20日 初版第16刷発行
もちろん、交通工学の専門的見地から、無信号横断歩道での歩行者優先ルールは合理的ではないとの判断を明確に宣言しているなら別ですが、そのような注記は見られません。おそらくは当時の交通実態の単なる現状追認です。横断歩道でドライバーが無意識的に歩行者に道を譲る判断をするよう促す道路デザインの検討も全くしていないです。
歩行者優先の道路デザイン
では、日本と違ってルール遵守・事故防止をデザインの面からも追求してきたオランダはどのような設計をしているでしょうか。
オランダの無信号横断歩道の設計例(出典)
- 時速40km/h以上ではドライバーは横断歩行者を無視して通過しがちなので、車道の車線幅を狭くし、最初からスピードを抑えさせている。
- 横断帯の直前の車道上にハンプを設置して更にスピードを落とさせる。
- 横断帯手前で止まった車を後続車が追い越せないように、車道は片側一車線で上下線を構造的に分離している。
このようなノウハウを欠いた状態が長年続いてきた日本で横断歩行者無視が暗黙のルールとして定着してしまっているのは当然ですね。エンジニアの方々には、自分たちがそれに加担してきたのだという自覚を持ってもらいたいです。