国土交通省が開催している「自転車の活用推進に向けた有識者会議」の2020年10月の会合で1本の論文(出口・小嶋・久保田, 2019)が取り上げられました。委員の一人である久保田氏の共著論文で、埼玉県内の自転車通行空間を対象に、整備前後の事故発生状況を分析したものです。
委員会の屋井座長は
久保田先生の資料、これも見ていただきますと分かるとおり、走行空間を整備して事故が非常に減っているというのが如実に表れている、歩道上を走っている自転車の事故も減っている
と発言しており(議事録 p. 14)、他の委員も誰一人として反論していません。ですが、この論文はもっと慎重な解釈が必要です。本稿ではその理由を詳しく掘り下げます。
前提の確認
底本
この論文は同名の修士論文が筆頭著者の出口氏によって先に発表されており、翌2019年の学会投稿版はその抜粋と思われますが、委員会で配布され、実際に議論の俎上に載ったのはその学会投稿版です。このため本稿では後者のみに基づいて議論します。
議論の範囲
この論文が議論している範囲は安全性のみです。自転車ネットワークには他にも快適性、速達性、連続性などの要件があり、安全性はその一つに過ぎません。特に、自転車の利用を今以上に促進するという文脈(つまり有識者会議での議論)では、安全は確保されて当然の前提条件で、それ以外の要件をいかに高水準で実現するかが鍵になります。
以上を念頭に本題に入りましょう。
1. 対象路線の詳細が不明
例えば車道の端に矢羽根をペイントして事故が減ったとします。しかしその路線が2車線で30km/h規制だった場合と、8車線で60km/h規制だった場合では話が全く違ってきます。調査対象路線の特性の明示は、この種の研究報告では必須でしょう。それ無くしては、政策に活かせる有益な情報が引き出せないからです。
しかし出口・小嶋・久保田(2019)はどの路線を調査したのかを完全には明かしていません。論文に書かれているのは
- 調査対象として抽出する条件 (*) と、
- その基準によって21路線が選ばれたということ、
- そして論文終盤のグラフでやっと現れる18路線の名前
のみです(残り3路線は結局最後まで不明)。他の情報は、横断面構成も規制速度も自動車交通量も無く、引用されている先行研究よりむしろ情報の解像度が下がっています。
先行研究が残した課題の一つとして「(自転車通行空間の整備後に事故が増加するか減少するかは)対象路線によって一様な傾向はみられていない」と指摘する出口・小嶋・久保田(2019)が、なぜ路線の特性の違いに着目しないのか、理解に苦しみます。
条件1 | 2013~2016年度に自転車通行空間が整備された路線で発生した事故 |
条件2 | 埼玉県から自転車通行空間整備に関する情報の提供を頂いた路線で発生した事故 |
条件3 | 第一当事者、第二当事者共に分析対象路線と交差する道路から進行してきた事故を除いた事故 |
条件4 | 2014年度及び2015年度に自転車通行空間が整備された路線:整備前後2年分の事故 |
条件5 | 2013年度及び2016年度に自転車通行空間が整備された路線:整備前後1年分の事故 |
※「自転車通行空間と関係の薄い事故」は予め除かれている。
2. 整備形態の内訳が不明
出口・小嶋・久保田(2019)は調査対象のインフラを「自転車通行空間」と一括しており、それが具体的に何なのか(交差点の前後にだけ設置されたピクトグラムか、連続的に引かれた矢羽根か、最低幅員基準を満たした自転車レーンか、構造的に分離された自転車道か、広い歩道の視覚的区分か、など)を区別していません。
路線名が分かればインフラの種類も特定できると思われるでしょうが、Street Viewで確認すると多い路線では5種類もの整備形態を抱えていることが分かります。
論文の記述を元に、Google Maps の航空写真と測距機能を用いて筆者が集計。 ただし航空写真の撮影が出口・小嶋・久保田(2019)の分析対象年だとは限らない。 |
前掲図と同様、Google Mapsを用いて筆者が集計 |
私自身が撮影した動画も交えつつ実際の様子を見てみましょう。
川口蕨線
矢羽根
自転車レーン
保谷志木線
矢羽根と自転車レーン
緩衝帯付き自転車レーン
ガードレール付き自転車レーン
六万部久喜停車場線
矢羽根と自転車レーン
歩道内の視覚的区分
太田熊谷線
路肩の矢羽根
簡易自転車道あるいは拡張歩道
鴻巣桶川さいたま線
交差点前後の路肩のピクトグラム
自転車レーン
これらの内、出口・小嶋・久保田(2019)の言う「自転車通行空間」がどれを指しているのか(あるいは一括してしまっているのか)は、読者には容易には分かりません。
Street Viewで過去を辿れば、2013年より前からあった自転車通行空間は除外できると思われるかもしれませんが、調査対象とする事故の抽出条件として出口・小嶋・久保田(2019)は
2013~2016年度に自転車通行空間が整備された路線で発生した事故
という表現をしており、
2013~2016年度に自転車通行空間が整備された路線の内、当該通行空間が整備された区間で発生した事故
のような明示的な限定はしていません(路線のどこか一部でほんの数十メートルでも自転車通行空間が整備されさえすれば、その路線の他の自転車通行空間も全て対象になり得る)。
このように自転車通行空間の種類を区別しないことが問題と言えるのは、自ら引用した先行研究の指摘を踏まえていないからです。
先行研究が鳴らした警鐘
出口・小嶋・久保田(2019)が引用した先行研究の一つ、幸坂・宮本・前川(2017)は、都区部で自転車レーンが整備された3路線と自転車道が整備された1路線の整備前後の事故発生状況を調べた研究で、自転車道整備路線では自転車事故が減少(自転車交通量はやや増加)した一方、自転車レーン整備路線は全てで自転車事故(特に単路部の車道での事故)が増加した(うち1路線は自転車交通量は大きく変化していない)ことを明らかにし、
自転車レーンを整備するにあたっては、これら交通事故の特徴を踏まえた道路構造的な工夫など改善方策の検討が課題である
とまとめています。言い換えれば、どのような環境にどのような形態のインフラが適切なのか (*) を具体的に明らかにすることが、後続研究に課題として残されているのです。
(* 幸坂・宮本・前川(2017)は、ロンドンで五輪開催を機に急造された簡易自転車レーンが死亡事故の続発を受けて構造的分離のある自転車道に改修された事例を引き、日本国内の現行のガイドラインが示す整備基準そのものに疑問を投げかけた論文でもあります。明確に「基準は不適切だ」とまでは踏み込んでいませんが。)
出口・小嶋・久保田(2019)はこの問いに答えていません。それどころか、「自転車通行空間」と名の付くものなら何でも良いという発想に退行しているようにさえ見えます。
3. 自転車交通量データの詳細が不明
出口・小嶋・久保田(2019)は自転車交通量のデータについて、
埼玉県が自転車通行空間の整備前後に実施した「走行位置・走行方向別の12時間自転車交通量」を利用した。
と説明し、これを路線別、事故類型別、通行位置別の分析で用いていますが、肝心の出典が無く、調査方法も調査地点も不明です。もし事故の分析対象区間に交通量データと異なる自転車の通行実態 (*) があったとしたら、事故発生率が実態より誤って低く、あるいは高く計算されますが、詳細不明のデータではそれを指摘できません。
(* 例えば自転車レーンと矢羽根が併用されている路線では、交差点手前の矢羽根区間で自転車ユーザーが車と混ざる不安感から、あるいは待機車列に塞がれて進めない不便さから歩道に上がる実態がしばしば見られます。)
4. 自動車交通量が不明
自転車事故の相手は9割が自動車(二輪含む)で、自動車交通への曝露量は事故リスクを大きく左右する因子ですが、前述の通り出口・小嶋・久保田(2019)は調査対象路線の自動車交通量(とその変化)を示していません。これも先行研究から後退した点です。
なお、自動車交通量については埼玉県が道路交通センサスの結果を公表していますが、調査地点が自転車インフラの整備された中心市街地からかけ離れた郊外という場合もあるので、あまり参考にはなりません。
平成27年 道路交通センサス 箇所別基本表 (kasyo_10.xlsx) を元に筆者作成 (調査地点が複数ある路線は自転車通行空間の整備区間に 地理的あるいは環境的に最も近いと思われる地点) |
5. 直前の通行位置はあくまで推測
出口・小嶋・久保田(2019)は
事故発生地点の情報からは事故当事者の衝突直前の走行経路が不明であるため、事故原票データの緯度経度情報を用いて衝突地点を航空写真上に落とし、事故原票データ上の衝突地点、事故類型と第一当事者及び第二当事者(以下、1当及び2当と記載)の進行方向・行動類型・種別・法令違反情報を用いて、1当、2当の衝突直前の走行路線、走行位置(車道・歩道)を推測した。
と説明していますが、その推測に誤りや恣意性が入り込む余地(あるいは事故原票の記載の曖昧さや非一貫性という問題)があるかもしれません。一例ですが、図のような事故の場合、自転車が衝突直前に歩道を通行していたと誤判定される可能性があるように思えます。
筆者作図 |
6. 鵜呑みにできない出会い頭事故の減少
出口・小嶋・久保田(2019)の調査結果では、最多事故類型である出会い頭事故が歩道、車道とも半減しています。
出典:出口・小嶋・久保田(2019) |
この結果を見ると、通行空間の整備によって「自転車が歩道から車道に移り歩道通行中の出会い頭事故が減った」とか「車道通行中の出会い頭事故リスクが下がった」と解釈したくなる誘惑に駆られるでしょうが、そう推論するにはデータが不足しています。
第一に、事故リスクを評価するには通行台数による正規化が必要ですが、出口・小嶋・久保田(2019)は「「出会い頭事故」と「その他の事故」に関しては事故形態が複数あり分析が困難」として、その作業をしていません。
第二に、自転車の通行実態について出口・小嶋・久保田(2019)は「自転車の車道転換が進んでいる」としか述べておらず定量化していません。これでは、例えば車道通行率が20%から90%に上がったのか、それとも30%にしか上がらなかったのかが分かりません。
第三に、自転車通行空間を整備しなかった他の路線について同様の分析をしていないので、本当に通行空間の整備が事故を減少させた因子なのか、それとも何か別の要因が作用しているのか、対照して炙り出すことができません。
7. その他の因子の見落とし
出口・小嶋・久保田(2019)は「自転車通行空間の整備」と「自転車交通量」の2因子だけで事故リスクを説明しようとしていますが、その調査対象期間にはもう一つ、自動車の衝突被害軽減ブレーキの急速な普及という変化が起こっています。
出典:第2回 高齢者の特性等に応じたきめ細かな対策の強化に向けた運転免許制度の在り方等に関する調査研究分科会, 資料6, p. 10 |
ひょっとすると、自転車事故の減少はインフラ整備よりも、このブレーキシステムに因るところが大きいのかもしれません。
8. 死亡リスクを論じるには小さいサンプルサイズ
分析対象の期間、死亡事故は幸い整備前の1件から整備後の0件に減っています。出口・小嶋・久保田(2019)は「重傷・死亡事故の増加が懸念されたが(中略)自転車の車道通行に関する安全面での問題は無いと思われる」と判断していますが、
- 21本という限られた路線の、
- ごく一部の区間(少ないところでは路線延長の3%)の、
- 整備前後の1〜2年ずつという短期間
から収集した事故データは、死亡リスクを論じるのに十分なサンプルサイズと言えるでしょうか。1件→0件は偶然のゆらぎの範囲内という可能性もありそうです。
9. 事故発生率の変化を“差”ではなく“比”でグラフ化
論文の視覚表現の面で不可解なのが図9と図6です。
整備前後の通行台数当たりの事故件数を、なぜか差ではなく比(整備後/整備前)でグラフ化しています。このため、整備前に事故が0件だった場合はゼロ除算を犯してしまっており、グラフではその値を恣意的に1.5で固定しています。査読者がいれば指摘されたはずですが、査読のない雑誌だったのでしょうか?
一応、著者らが使った表計算ソフトのグラフ作成機能ではマイナス側のあるグラフが作れなかったという可能性もあるかと思い、Microsoft Excel, Google Sheet, macOS Numbers, OpenOffice Calcを一通り試しましたが、いずれも特殊な設定を要さず簡単に作れました。
10. 優良誤認を招くスライドパート
ここまでは論文本体の問題点を見てきましたが、委員会で配布されたPDFでは論文の後にプレゼンテーション・スライドが付いています。これが本体以上に曲者でした。
まずタイトルと研究背景。片側2車線の幹線道路の車道端に矢羽根が引かれている写真が載っています。文脈から考えれば出口・小嶋・久保田(2019)が調査した埼玉県内の路線の例示としか思えませんが、
実は全く無関係な栃木県宇都宮市内の国道4号のもの。これはかなり悪質な写真選択です(写真の透かし部分をトリミングして出典を辿りにくくしている点も関心しません)。
撮影地のStreet View
なぜ悪質と言えるか。宇都宮の国道4号は片側2車線、規制速度50km/hの幹線道路ですが、論文の調査対象の路線は(不明の3路線を除けば)全て片側1車線で規制速度40km/h(一部30km/h)。その比較的穏やかな環境で事故を減らしたとする整備形態が、より危険な環境でも有効であるかのように誤認させるからです。
もう一つは事故の減少幅を県全体 (*) と整備路線で比較したスライド。
(* 調査対象外の路線でも県内で同時期に自転車走行インフラを整備した路線があるでしょうから、この対照群の設定では効果が薄まって見えると思いますが。)
視覚的な印象では県全体の方が減少が緩慢で、整備路線の方が急激な印象を受けますが、数字だけ見ると前者が30%減、後者が35%減で5ポイントしか違いません。この僅差では統計的に有意差 (*) が出るかどうか……。
(* 適切な統計手法か自信がありませんがχ2検定では有意差なしです。)
まとめ
以上見てきたように久保田論文は、
- 対象路線の詳細が不明
- 整備形態の内訳が不明
- 自転車交通量データの詳細が不明
- 自動車交通量が不明
- 直前の通行位置はあくまで推測
- 鵜呑みにできない出会い頭事故の減少
- その他の因子の見落とし
- 死亡リスクを論じるには小さいサンプルサイズ
- 事故発生率の変化を“差”ではなく“比”でグラフ化
- 優良誤認を招くスライドパート
といった問題のある内容でした (*)。
(* ついでに言えば論文の題もおかしい。「安全な自転車通行空間の整備とその効果に関する研究」ではなく、「自転車通行空間の整備とその安全効果に関する研究」とすべきでしょう。)
有識者委員会には、このような資料に軽率に飛び付かず、問題点を指摘して議事録に残すことを期待します。
関連情報
過去に筆者が書いた意見書「国土交通省・警察庁の自転車ガイドラインについての意見」から本稿に関連する節をピックアップして紹介します。
2章 2.2.4.5節「宇都宮市・国道4号の整備事例」
久保田氏がスライドのタイトル写真に使った宇都宮市の国道4号の矢羽根について、整備後に事故が減少し0件になったとの報告書が出ているものの、
- 当該区間では矢羽根の引かれた車道を通行する自転車が僅か5%(自転車交通量の最も多い調査地点)で、事故は矢羽根とは無関係に歩道上で減少した可能性がある。
- 自転車の車道通行率が25.6%(唯一の2割超え)の調査地点は東署南交差点の南側流出部だが、国道4号の南行き車線はこの交差点を境に車線数が増えるので、車道を走る自転車は車と交錯する回数が少ない(実質的には「混在通行」にならない)と考えられる。
と指摘しています。
4章 4.2.1.1節「交差点走行実験結果の誤った解釈」
交差点流入部における種々の自転車インフラを実走実験で比較・評価した久保田氏の共著論文について、
- 自転車利用者役として実験に参加したのは全員大学生で男性9人に女性1人と、年齢・性別が極めて偏っている(実験結果は、子供や高齢者も含めたユニバーサルな道路設計の基礎材料としては使えない)。
- 実験の場には直進自転車と左折自動車しかおらず、現実の交差点での複雑なリスクを再現できない。
- 実験場所は歩道のない運転免許試験場なので、現実の道路におけるユーザーの挙動(自転車が交差点の手前で歩道に上がること)を予測できない。
と指摘しています。