2011年12月18日日曜日

「全然+肯定は間違い」は迷信なのか

日経新聞電子版の12月13日の記事から。
「全然いい」といった言い方を誤りだとする人は少なくないでしょう。
一般に「全然は本来否定を伴うべき副詞である」という言語規範意識がありますが、
研究者の間ではこれが国語史上の“迷信”であることは広く知られている事実です。
続けて記事は日本語学会の研究発表を紹介しているが、
果たして「全然+肯定は間違い」は迷信と言えるのだろうか。



--------

記事について先ず確認しておきたいのが、
明治・大正時代の「全然+肯定」と現代の「全然+肯定」が
質的に異なるという事を指摘しているかという点。

→ してない。

いや、仔細に見ると最後の方にちょこっと書いては有るが、
あれでは勘違いする読者が出るんじゃないだろうか。
そもそも「全然(ぜんぜん)」という語が日本語に定着するのは
日本国語大辞典(第二版)に拠れば明治30~40年頃。

それ以前は「全然」という漢字に「まったく」、「すっかり」、「そっくり」、
「まるで」、「まるきり」などのルビを振って使っていた(同じく日国ver.2参照)
事からも分かる様に、当時の「全然+肯定」に於ける「全然」の意味は
「残るところなく。全てにわたって。」で、単なる強調(や相手の発言を
打ち消す為)に使われる現代の「全然+肯定」とは異なる。

例えば、手料理をご馳走になって感想を求められた時、
一品でも不味い料理があれば明治人は「全然おいしい」とは言えない。
論理的には。

対して現代人は、作った人から「うまくできたか自信無いんだけど」などと
聞かされている文脈では特に、一品くらい不味い料理が有っても
「全然おいしいよ!」と言える。論理的にも。

もう一点が日本国語大辞典(第二版)に言及しているかという事。

→ してない。

何で?真っ先に確認すべき定番の辞書なのに。
古今の「全然」の意味変化は勿論、
「全然」と否定表現の結び付きが強まる時期まで
2000年(乃至2001年)の時点で既に書いてるのに。

大辞林の方が身近とは言っても、日本国語大辞典だって
図書館に行けば灰にオレンジの表紙が揃ってるんだから、
紹介すれば良いのに。

さて頭に戻って「迷信」。

規範意識と歴史的な言語事実のずれを「迷信」と言っているのは
記者ではなく、紹介されている研究発表をした人らしいのだが、
言語学者が「迷信」と言ってしまって良いのか……。

中学や高校で英語や古典の文法に苦しめられた
多くの人にとっては、文法は
権威ぶった本に書いてある理解不能なルール、しかも沢山
という感じではないだろうか。
私も英文法が大嫌いで、英語も大嫌いで、おまけに
英語を喋る文化圏まで毛嫌いしていた。
英語のテストなど13点だった。200点満点中。

が、文法の正体は本に書いてある小難しい規則ではない。
本に書いてあるのは本物の文法の模写に過ぎない。
(正確には「規範文法」という種類の文法ではある。)

本来の文法は、その言語を話す人(々)の脳内に有る、
「全然無い」は言うね。ありあり。
「全然良い」は言わない。間違ってる。
といった判断の集合体の様なものである。
当然、時代や場所、人に拠って微妙にずれる。
研究者が幾ら注意深く「規範文法」を書いても、
それは現実の文法と完全には一致しない。

(日本語研究の専門書の中でも「いやそれは言わない」
とツッコミを入れたくなる例文が偶に出てくる。)

「〈全然+肯定〉は間違い」という規範意識について考えてみると、
現在、大多数の人がそういう「文法」を脳内に持っているのだから、
それが現在の大多数の人の文法である。
正しいも間違いも無く、事実として、そういう文法が存在する。
これを迷信と切って捨てるのは如何なものか。








ただ……。
上で出した「全然おいしい」の様な言い方は気に食わないな。

脳内の文法はその性質から全員完全一致する事は無い。
なので、例えば隣の県の言葉遣いが気に食わなかったり、
若者言葉が癪に障ったり、逆に中高年のアクセント
(俗に言うイントネーション)が気持ち悪かったり、という事が起こる。
(「俗に言う」という一方的な判断もその一例である。)
自分と同じ文法、同じアクセントで喋ってもらいたい。
そうすれば心穏やかで居られるのに。
と、両者ともに考えるが、現実には年長者の権力で
中高年の文法が「正しい」事になったり、
発言力を武器に若者言葉が事実上の勝利を手にしたりする。

その程度の事。