2014年9月5日金曜日

オランダ vs アメリカ——自転車インフラの設計思想対決

レストランを選ぶ時に決め手になるのは
食品の安全性ではなく料理の魅力。

それと同じで、自転車に乗るかどうかを左右するのは
道路の安全性ではなく移動手段としての魅力。

——そんな見事な喩えを放ったオランダ人がいます。

上の言葉は、そのオランダ人が、アメリカ人技師のジョン・フォレスター
(サイクリストに車と同じように車道を走る事を勧めている著名人)
を批判した文に出てくるものです。今回はそれを全訳で紹介します。

例の如く、私は全面的にオランダに肩入れしております(笑)


2014年9月10日 追記
訳文中の(*)の箇所に問題が有ったので、
記事の最後に説明を加えました。



「自転車で車のように走る」という発想が偽りの二分法を生む理由
——ジョン・フォレスターの「自転車の2種類の乗り方:車道のルールに従うか、サイクリストとして劣等感を甘受するか」に対する批評——

トム・ホウダフローエイ(オランダ自転車使節団・上級政策顧問)
2013年11月20日

出典
http://www.dutchcycling.nl/library/file/vehicular%20cycling%20false%20dichotomy.pdf

ジョン・フォレスターの見解や持論には同意できるものも多い。幾つか例を挙げると、

> 自転車は車両だ。これはサイクリストが使うインフラの要件に関わってくる。サイクリストは歩行者ではないから、歩道にいるべきではない。

> 自転車道や自転車レーンはしばしば、ドライバーが「鬱陶しい」と考えるサイクリストを車道から排除する為に整備される——そんな見方にも一理ある。その場合、自転車走行インフラが最良の形で設計されないだろう事は明らかだ。

> 世間には非合理な恐怖を煽る風潮(culture of fear)が有るが、これは非生産的だ。この風潮はしばしば道路の安全管理者の善意に助長されているが、利点よりも害が多い。それによって人々が自転車に乗るのを止めてしまうからだ。

> 自転車道は、安全の観点からは、交差点を適切に設計しない限り有効ではない。

問題は、これらの見解から何が言えるかという事だ。ジョンは自分が望む事よりも、望まない事についての方が遥かにハッキリした考えを持っているように見える。ジョンは1960〜1970年代の自転車インフラの発展と議論に言及しているので、私もその時代に言及しよう。この時期のオランダでは、私が「現代自転車政策」と呼ぶものが始まった。1950年から1975年の間にオランダでは自転車利用の急激な低下を経験した。当初、これは進歩に伴う不可避的な作用と受け取られていた。交通工学の専門家は自転車をいずれ消えるものと見做しており、政策もインフラ設計もその見方を反映していた。しかし1970年代に入るとその方向の問題点が明らかになってきた。増加する交通安全の問題、侵食される都市の住環境や公共空間の質、車に乗る機会を持たない人から奪われる移動の自由、これでもほんの一部だ。そして人々は次々に、移動手段としての自転車の重要性に気付き始め、それを発展されるべきだと考えるようになった。1976年、政府はティルブルフとハーハの2都市での実験に資金を出す事を決めた。いわゆる「自転車ルート実験」の実施である。これらのルートは主に構造的に分離されたインフラから成っており、一部の区間は車の通行を抑制していた。そして交差点の設計には多くの注意が向けられ、サイクリストの「優先通行権」と安全性を両立しようと試みられた。2つのプロジェクトは多様で幅広い観点から評価された。整備が自転車利用に与えた影響、利用者からの評価、道路の安全性への影響、地域経済への影響などなど。率直に言うと、道路の安全性への影響は思いのほか限定的だった。しかし、最も衝撃的だった結果は、サイクリストが「邪魔されずに」走れるという事実を甚く喜んだという事だった。彼らの体感上の安全性は大幅に改善したのだ。実験ルートは並行ルートから多くのサイクリストを引き寄せた。

もし私たちの社会が、私たちの街が、自転車利用(の増加)から生じるあらゆる便益を手にしたいと望んでいるなら、取り組むべき課題は自転車に乗る事を魅力的にする事だ。道路の安全性は自転車政策の究極の目的でもなければ、介入策の成功の判断基準でもない。道路の安全性と、体感的な道路の安全性は、自転車利用の促進にとって重要な【前提条件】だ。それ以上ではなく、確実に、それ以下でもない! サイクリストに対して恒常的に道路の危険を訴え、誇張するだけの〈恐怖を煽る文化〉は役に立たないだろう。そもそも人は、単に安全だからという理由では自転車に乗らないのだ!(私たちがレストランを選ぶ時、その店の食品が安全だからという理由では選ばず、その店の料理が美味しいから選ぶのと同じだ!)自転車は実用的で、効率的で、便利で、楽しい移動手段でなければならない。

現実を直視しよう。車を中心に設計された道路システムも街も、自転車にとっては魅力的な環境ではない。自転車は車両だが、自動車との間には相当の違いが有る。それに、車が犇めく環境はサイクリストにとって酷く恐ろしいものになり得る。インドの都市(今でも自転車がかなり使われている)は、サイクリスト特有の事情を考慮せずに設計された道路で、自動車と自転車の共存がどれほど問題を引き起こすかを見せてくれる。車道のルールを守れとか「従え」と言うだけでは全く足りない。仮にサイクリスト向けの訓練で普通の人々を、車が優勢な環境に対処できる、自信に溢れたサイクリストに仕立てる事ができると信じても、その道路環境は依然としてサイクリストには厳しいものに感じられるのだ! ここで、スティーヴン・フレミンの本、『サイクル・スペース』から彼の言葉を引用したい。「男らしい趣味の一つとして、効果的な、或いは「車のような」自転車の乗り方——ちょうど、ジョン・フォレスターがその著書で私に教えてくれたような乗り方——は、かつて、私にとっては大きなプライドの源だった。私は車道を走る権利を強く主張していた。親が運転する車の後部座席に座った子供を驚かせていた。子供たちは、車と同じ速さを維持するこのサイクリストに手を振っていた。そして私は成長した。……そうだ。他に良い選択肢が無いなら、私はトラックや乗用車に混じって自分の命を危険に曝すだろう。だが、自転車道が有るなら、私は川沿いに延びるその自転車道を走るだろう。代替ルートを探すという手を知ったのは、雨の夜に通勤する必要に迫られての事だ。夜には静かな裏道の方が安全だという事を発見した。(……)」

多くの道路計画者がサイクリストと同じく、自動車の交通量が多い(速度も高い)環境では自転車は自動車と共存できないと結論付けるのはちっともおかしくな事ではない。この判断は、過去にはサイクリストを車道から締め出すばかりで、より良い通行空間を用意しないという結果に繋がったが、それとて、車の洪水と自転車が共存できないという事を否定する根拠にはならない。ここで問うべきなのは、どうすれば問題を解決できるかだ。私は、「車道のルールに従う」か「サイクリストとして劣等感を甘受するか(*)」の二択を受け入れはしない。これは偽りの二分法だ。

基本的に、共存不可能という課題を解決するには二つの方法が有る。

  1. 分離: 共存できない交通モードには、道路上でそれぞれの空間(領域)を持たせる。
  2. 統合: ドライバーの行動を状況に適合させる事で、共存不可能性を最小化する。これは例えば、車とサイクリストの速度差を最小化するという事だ。

これらの手法は互いに排他的なものではなく、寧ろ相補的な方策だ。

高速で流れる大量の自動車が避けがたい場合は、取るべき選択肢は間違いなく〈分離〉だ。分離が望ましくないか不可能な場合は、自動車交通の抑制が求められる。或いは、必要な時は分離、可能な場所では自動車の抑制。どちらの介入策も、交通状況や道路の機能に応じた向き不向きが有る。

ジョン・フォレスターの持論は明らかに、自転車を本格的な移動手段として充分に活用するには、分離では本質的に不充分だという事だ。道路の単路区間だけ分離レーンを用意して交差点が手つかずのままなら尚更だ。不適切に設計された自転車専用インフラの例の数々を見つけるのは容易い。これらは、増え続ける自動車交通の為に道から邪魔者を排除したというアリバイを道路管理者に与える以外には、何の働きもしていないように見える。だからこそオランダでは自転車インフラ一般について、質的要求事項を追加で定めたのだ。これらの要求事項は、どんな目的で移動するサイクリストでも道路ネットワークを効果的に使えるようにしている。我々はそれを5つの中心的要件と呼んでいる。

> 統合性: 自転車インフラはその地域の全ての発着点を結ぶ密な路線網を持つべきだ。

> 直行性: 道路管理者はサイクリストの遠回りとタイムロスを最小化すべきだ。

> 安全性: 道路管理者は自動車と自転車の衝突、その他の衝突の件数を最小化すべきだ。(間違いに寛容な道路の設計)

> 快適性: 自転車インフラは楽に運転できる形にすべきで、(貴重な)人間のエネルギーの消費を最小化すべきだ。

> 魅力: 低速な移動手段ほど都市環境の質に敏感になるので、自転車ルートはなるべく変化に富んだものが良い。

我々は、広範な視野に立ったこの問題解決手法が(安全しか考慮しない手法以上に)自転車の「車のような」性質を認めるものだと確信している。この手法に於いて我々は、自転車でわざわざ激しい自動車交通の中を走ろうとはしない人々や、体感的な道路の安全が不充分である事を理由に、子供に移動という重要な自由を与えない親を見下したりはしない。我々は、道路の危険についての恒常的な警告を必要としない道路環境を作り出す事で、自転車を取り巻く恐怖の文化に立ち向かう事を選ぶ。それは単純に、我々がそうした危険に上手く対処してこれたからだ。その方が、危険にどう対処するか教えたり学んだりするよりも良いと我々は考えている。自転車は非常に重要な移動手段の一つだ。ヘルメットを被り、派手なジャージを着た剛胆な戦士たちだけのものではない。自転車はエリート主義であってはならない。誰もが乗れるものであるべきなのだ。


参考文献
  • Godefrooij, Tom: Segregation or integration of cycling in the road system: the Dutch approach; in Sustainable transport, Planning for walking and cycling in urban environments, edited by Rodney Tolley, Cambridge, Woodhead Publishing Ltd (2003)
  • Van Goeverden, Kees, en Godefrooij, Tom: The Dutch Reference Study, Cases of intervention in bicycle infrastructure reviewed in the framework of Bikeability, Delft, TU Delft (2011)
  • Sign up for the bike, manual for bicycle-friendly infrastructure, CROW (1993)
  • Design Manual for Bicycle Traffic, CROW, (2006)
  • Fleming, S, Cycle space, Rotterdam, nai010 publishers (2012)

ちなみに今回の訳では、複数の第1人称代名詞で
聞き手を含む(かもしれない)ものは「私たち」、
含まないものは「我々」と訳し分けてみました。



* 2014年9月10日 追記

「サイクリストとして劣等感を甘受する」
と訳した部分の原文は 'cyclists-inferiority' です。
今見返すと、
  • クルマと同じ車道空間か
  • 保護された自転車道か
という文脈での議論なので、意訳するにしてもせいぜい
「低い地位の(=粗末な自転車道に押し込められた)サイクリスト」ですね。
雑な訳で申し訳ない。

ここで、なぜ「劣等感を甘受」と訳してしまったのか振り返ると、
ジョン・フォレスターの思想がアメリカの自転車文化の発展を妨げた
という論考、「Has Machismo Harmed Bike Culture In America?
で読んだ次の記述が頭の片隅に残っていた事が影響したんだと思います。

John Forester and followers heavily resisted these lanes being put in place, preferring the open road instead.  In doing this, Forester essentially played into the hands of car drivers who hated bicyclists then: They preyed on his fear that bicycling was considered a children's activity, not something real men would do.

ジョン・フォレスターとその支持者たちは区分の無い車道を好み、〔ヨーロッパで導入が進んでいた、広い歩道上の、或いは車道と高低差が付けられた〕自転車レーンの導入には激しく抵抗した。フォレスターのこの運動は実質的に、サイクリストを嫌っていたドライバーを利する事になった。自転車に乗る事が「子供のする事だ」と思われないか、「男らしい男のする事ではない」と思われないかというフォレスターの恐怖心を、ドライバーたちは食い物にしたのだ。