という視点から事故の責任論を考えてみました。
「法的責任」をシステム改善のツールとして捉える見方です。
半自動から全自動まで自動化の程度は色々有りますが、
それはとりあえず置いといて、まずはドライバー
(と今のところ呼ばれている立場の人)に責任を課す場合を考えてみます。
この場合、ドライバーに責任を課す事で、
交通システム全体の安全性が
どの程度改善されるのかが問題です。
責任感によってヒトの注意力や危険予測力などが
改善されて事故が減るなら、或いは、
「責任を負わされるくらいなら」と他の安全な交通手段を
選ぶ人が増えるなら、それは意味ある制度です。
逆に、責任が有るからと言っても、
それが現実の人の行動に反映されないなら、
その制度はシステムの改善には寄与しないでしょう。
(ただ単にシートに座っていれば良い環境であれば、
道路状況への注意配分や危険予測をし続けるのは、
ヒトという処理装置の性質上、困難だろうと思います。
なお、ここで言う「ヒト」は、
慎重な人も軽率な人も全て含めた総体としての、
集合名詞としての「ヒト」です。)
次に、車のメーカーや道路管理者などに
責任を課す場合を考えてみます。
重い責任によってメーカーの改善努力が強まり、
クルマの事故回避能力がどんどん向上するなら、
その制度は有効です。
また、自動運転車でも対応できないような道路の死角や
高過ぎる制限速度など、環境側の要因の是正に繋がるなら、
道路管理者などにガンガン責任を課していくのも有効でしょう。
(それによって例えば住宅街の道路の制限速度が
15 km/h や 7.5 km/h に引き下げられたり
車の通行自体を禁止する区域が広がるなど、
人間本位の街への転換が期待できるかもしれません。
クルマは基本的に幹線道路と高速道路だけを走る乗り物になり、
移動手段としての性格が根本的に変わる可能性も有ります。
環境負荷や人間社会の持続性という観点からは望ましい変化です。)
ただ、メーカーに対する重過ぎる責任は
自動運転車の普及を無意味に遅らせてしまうかもしれません。
それが交通システム全体の安全性の向上を阻害するなら、
それもまた困った制度という事で、
バランス感覚が大事になるんでしょうね。
(生身の人間は車のコントロール中枢として欠陥が多過ぎるので、
私は自動運転車の普及に強く期待しています。)
こんな感じで、私はシステム改善こそが
法的責任の存在意義だと考えています。
システム改善への寄与度という単純な指標に基づいて
制度設計できるので、責任配分の決め方で
あーだこーだと紛糾する事態も起こりにくいでしょう。
逆に、旧来のような、
誰を罰したら被害者(や世間)の溜飲が下がるかという感情論を根底に持つ制度設計では、
システムの安全性の向上に繋がらず、
結局誰も幸せになれなくて不毛なんじゃないかな。