2014年6月22日日曜日

自動運転車の法的責任の考え方

どうしたらより良い社会を実現できるか
という視点から事故の責任論を考えてみました。
「法的責任」をシステム改善のツールとして捉える見方です。



半自動から全自動まで自動化の程度は色々有りますが、
それはとりあえず置いといて、まずはドライバー
(と今のところ呼ばれている立場の人)に責任を課す場合を考えてみます。
 
この場合、ドライバーに責任を課す事で、
交通システム全体の安全性が
どの程度改善されるのかが問題です。

責任感によってヒトの注意力や危険予測力などが
改善されて事故が減るなら、或いは、
「責任を負わされるくらいなら」と他の安全な交通手段を
選ぶ人が増えるなら、それは意味ある制度です。

逆に、責任が有るからと言っても、
それが現実の人の行動に反映されないなら、
その制度はシステムの改善には寄与しないでしょう。

(ただ単にシートに座っていれば良い環境であれば、
道路状況への注意配分や危険予測をし続けるのは、
ヒトという処理装置の性質上、困難だろうと思います。

なお、ここで言う「ヒト」は、
慎重な人も軽率な人も全て含めた総体としての、
集合名詞としての「ヒト」です。)


次に、車のメーカーや道路管理者などに
責任を課す場合を考えてみます。

重い責任によってメーカーの改善努力が強まり、
クルマの事故回避能力がどんどん向上するなら、
その制度は有効です。


また、自動運転車でも対応できないような道路の死角や
高過ぎる制限速度など、環境側の要因の是正に繋がるなら、
道路管理者などにガンガン責任を課していくのも有効でしょう。

(それによって例えば住宅街の道路の制限速度が
15 km/h や 7.5 km/h に引き下げられたり
車の通行自体を禁止する区域が広がるなど、
人間本位の街への転換が期待できるかもしれません。

クルマは基本的に幹線道路と高速道路だけを走る乗り物になり、
移動手段としての性格が根本的に変わる可能性も有ります。
環境負荷や人間社会の持続性という観点からは望ましい変化です。)

ただ、メーカーに対する重過ぎる責任は
自動運転車の普及を無意味に遅らせてしまうかもしれません。
それが交通システム全体の安全性の向上を阻害するなら、
それもまた困った制度という事で、
バランス感覚が大事になるんでしょうね。

(生身の人間は車のコントロール中枢として欠陥が多過ぎるので、
私は自動運転車の普及に強く期待しています。)

こんな感じで、私はシステム改善こそが
法的責任の存在意義だと考えています。

システム改善への寄与度という単純な指標に基づいて
制度設計できるので、責任配分の決め方で
あーだこーだと紛糾する事態も起こりにくいでしょう。

逆に、旧来のような、
誰を罰したら被害者(や世間)の溜飲が下がるか
という感情論を根底に持つ制度設計では、
システムの安全性の向上に繋がらず、
結局誰も幸せになれなくて不毛なんじゃないかな。