安全策が打たれつつありますが、その実態はかなり御粗末なものです。
或る小学校の校区を例に挙げます。
緊急点検には小学校、PTA、教育委員会、建設事務所、
自治体の担当者、警察が参加し、
例えば以下のような危険箇所を見付けています。
1. 住宅街の中の交差点
自転車が飛び出してくる。児童と出会い頭衝突を起こすリスク。
2. 横断歩道
児童が横断している時に車が強引に右左折する。児童を撥ねるリスク。
3. 下り坂の歩道
自転車が暴走している。児童を撥ねるリスク。
これらのリスクに対して、それぞれ以下の安全策が打たれました。
1. 住宅街の中の交差点
路面に「一時停止」、「自転車とまれ」の標示を設置。
2. 横断歩道
横断歩道の青時間を延長。
3. 下り坂の歩道
「自転車スピードおとせ」の看板を設置。
こんな策が有効だとでも?
1の「自転車とまれ」。
それを見て律儀に止まる自転車がいるでしょうか。
確実な効果を期待するなら、
交差点の手前に柵などの障害物を設けて減速・一時停止させるか、
角の建物や塀を切り欠いて視界を確保するくらいしないと駄目です。
(柵で車が通行できなくなってもです。)
2の青時間の延長は的外れも甚だしい。
歩行者と車の動線が交差しているのを、
空間的、または時間的に解消しないと意味が有りません。
その点、文京区の千石地区は分かっていて、
不忍通りの交差点はちゃんと歩車分離式にしています。
3の「スピード落とせ」も、
朝の慌しい時間帯には守られない可能性が大ですが、
そもそも徐行すれば済むという話ではありません。
危険が指摘された箇所の歩道の狭さや、建物による死角、
児童が脇道から走って飛び出す場合などを考慮して計算すると、
自転車の視界に児童が入ってから両者の動線が交わるまで
0.16秒
普通の人間じゃブレーキはおろか、反応すらできないでしょ。
要するに、狭い歩道を自転車が走るという前提からして間違ってるんです。
現状で自転車が歩道を走っているのは車道が危険だからで、
そっちを何とかしないと歩道上のハザードも解決しません。
例えば、道路の車道部分を削って自転車道を設置し、
車道は1車線の一方通行化するくらいの策が必要です。
が、道路管理者にそれを指摘しても、
「利害関係者の調整が面倒」とか、
「車にとって不便になる」とか、
「検討事項が多すぎる」とか、
「その道路は将来拡幅予定だから今は下手に弄りたくない」などと抜かす。
大人の利便性と子供の命のどっちが大切なんだよ!
それに拡幅って、お前それ何十年掛かるんだよ!
その間に何件事故が起きるんだよ!
これが「通学路の安全策」の実態です。
対策を施す主体が古い価値観に染まり切っているので、
従来と同じ地平でしかものを考えられず、
道路構造の根本的な問題を温存してしまってるんです。
もはや途中から、手段が目的化してますね。
児童の身の安全は完全に意識の外に行っちゃってます。
所詮は他人の子の命、という事でしょうか。
で、そういう問題を内包した安全策だという事が自覚できているからか、
緊急点検の結果と対策の報告書でも、最後はこう締め括られています。
物理的な対策には限界が有るので、
みなさんが交通ルールを守る事が重要です。
だーかーらー、
ルールを守らない人間がいるから亀岡の事故が起こったんでしょ?
全ての人間がルールを守るわけではない。
何でこんな基本的な前提が抜け落ちるかな。
それから、通学路の事故と言えば子供の飛び出しですが、
子供には見境無く走り出したくなる衝動が有ります。
学校で教わっても、親に注意されても、走る時は走る。
交通安全教育の効果や必要性を否定はしませんが、
それでも、子供はそういう生き物なんだと念頭に置いて
道路を作るのが大人の責任ではないでしょうか。
昔の人も言っています。
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
(『平家物語』)
白河法皇でも意のままにできない三つのもの。
これらを交通事故に当て嵌めて強引に解釈すれば、
- 「水」は自然災害
- 「賽」は偶然性
- 「山法師」は人の振る舞い
自然や運と同様、人間自身も思い通りにはならないんです。
この事を肝に銘じて対策を練らないと駄目です。
また、こういう言葉も有ります。
ERRARE HUMANUM EST
(過ちを犯すのが人間である)
こんなことは紀元前から分かっていた事です。
ただ、その続きは修正が必要でしょう。
SED PERSEVERARE DIABOLICUM
(しかし、それに固執するのは悪魔的である)
セネカさんがそう思いたい気持ちは分かりますが、
間違いだと分かっていながら繰り返してしまうのも、
また人間らしさです。現実を正確に写すなら、
ERRARE HUMANUM ESTと言うべきでしょう。
ETIAM PERSEVERARE HUMANUM