2015年7月16日木曜日

義憤も煩悩——瞋と癡のコンボ

或る事を妄信的に正しいと考え始めると、
  • それに反する現実を見た時に無性に腹が立つようになる。
  • 自分が信じている事と矛盾する現実からは目を背けるようになる。
  • 論理的思考力を失い、詭弁を捲し立てるようになる。
このように精神の自由を失って苦しみに呑まれていく事が有ります。



はい、「自転車は車道左側通行」絡みの論争の事でござんす。
私自身がこれまで体験してきたように、

「幹線道路だろうと何だろうと自転車は車道を走るのが正しい」と頑なに信じていると、歩道を通行しているが特に他人に害を与えているわけではない善良な一般市民に対してさえ怒りが涌き上がり、

「左側一方通行が正しい」と思い込むと、逆走自転車に対して「教育してやる」との傲りから相手を危険な目に遭わせたり、双方向自転車道の利点を無視したり、

「自転車利用者は全員ヘルメットを被るべきだ」とのスローガンに洗脳されるとヘルメットを被っているか否かのみに視野が狭まり、社会全体を俯瞰したリスク評価ができなくなります。


インフラの構造的な問題には目を瞑って路上駐車を責め立て、

ヒューマン・エラーを許さず個々人の注意力に頼った精神論を主張し、

調査で自説に不都合な結果が出ないように実験計画を歪め、

或いは手段を目的化してしまい、検証を省略する——


正義から発する怒りが社会を大きく進歩させる原動力になる事も有るでしょう。しかし、義憤もその根本に認識の誤りが有れば、迷いや苦しみを生む原因になります。道を沿って邁進している間はともかく、脱線して暴走し始めると手が付けられません。

それよりも、絶対の善悪は無いと考えて中庸さと広い視野を保った方が軌道修正も容易になり、結局は目標の達成に早く近付けるのではないかと想像します。


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