家の近所で子供が安心して遊べるように
車に速度を落とさせる構造を採用した生活道路を
オランダ語で woonerf と言います。
日本語では「ボンエルフ」というカナ表記が定着していますが、
これはオランダ語の発音規則から随分と外れているので、
おかしいと思って調べてみました。
するとどうやら、オランダの側にも
ちょっと事情が有るようです。
まずはオランダの生活道路を見てみましょう。
アームスフォート(Amersfoort)の古くからの中心地区です。
(規制標識が無いので、厳密には woonerf ではありません。)
住宅街の狭い路地
Google (2009) street view at 52.158635,5.390826
道路は基本的に煉瓦敷です。
住宅には車庫が無く、住人は路上に駐車しているようです。
T字路部分はハンプで嵩上げされ、歩道と同一水準になっていますね。
おや? 何だろう、このアーチ状の入口は。
Google (2009) street view at 52.158641,5.391196
奥に道が続いています。
Google (2009) street view at 52.158656,5.391236
狭い通路を抜けた先に、
Google (2009) street view at 52.15873,5.391234
Google (2009) street view at 52.15873,5.391234
中庭のような空間が広がっていました。
Google (2009) street view at 52.158991,5.391226
Google (2009) street view at 52.158991,5.391226
幹線道路からここまでの経路を street view で辿ってみましたが、
最初に〈30 km/h zone〉の標識が有った以外は
特に woonerf である事を示す標識などは見当たりませんでした。
ただ、途中かなり狭い路地を抜ける箇所も有りましたから、
実質的に出せる速度はせいぜい 10 km/h 程度でしょう。
私が2010年に旅行で現地を訪れた際も、この地区内を通る車は
人が歩くくらいのスピードしか出していませんでした。
さて、この woonerf ですが、日本語では「ボンエルフ」という、
似非フランス語っぽい謎のカナ表記が定着しています。
オランダ人は本当にそんな発音をしているのでしょうか。
ちょっと調べてみました。
話は複合語の発音規則やら、
オランダ語とフラマン語の違いやら、
日本語の音節構造やらに及びます。
まず、オランダ語で woonerf を実際にどう発音するのかですが、
これがなかなか音声資料が見付かりません。
それもそのはずで、オランダ国内では近年、
woonerf ではなく単に erf と言っているようなのです。
http://nl.wikipedia.org/wiki/Erf_%28verkeerswetgeving%29
Een erf, tot juli 1988 woonerf, is
volgens het Nederlandse Reglement verkeersregels en verkeerstekens
een deel van de verkeersinfrastructuur
dat is aangeduid met het verkeersbord 'erf'.
erf(1988年まではwoonerf)とは、
〈交通規則・道路標識法〉によれば、
道路インフラの一種で、
「erf」の標識により示されている場所である。
これは通称ではなく、法律文書でも正式に使われている呼称です。
例えば、オランダの道路交通法に当たる
Reglement verkeersregels en verkeerstekens 1990 (RVV 1990)
(交通規則・道路標識法 1990)には次のような条項が有ります。
Artikel 44
Voetgangers mogen wegen gelegen binnen een erf over de volle breedte gebruiken.
第44条
歩行者は erf の中に位置する道路を、幅員全体に亘って使う事ができる。
で、数少ないながら "woonerf" で検索して見付かったのが、
ベルギーで使われているフラマン語(南部オランダ語)での発音例でした。
Woonerf Middelhoek from IMMO VIRTUEEL on Vimeo.
ベルギーの不動産広告のビデオです。
0分35秒に [wuːn.ʔɛɾf] という発音が聞こえます。
語中に声門閉鎖音が入っていますね。
こちらはベルギーの運転免許の試験対策サイトが
無料公開している講座のビデオです。
1分45秒、1分52秒、1分58秒、2分07秒に、
[ʋoːn.ʔɛɾf] という発音が聞こえます。
やはり語中に声門閉鎖が入りますね。
つまり、現時点で "woonerf" という語を
外来語としてではなくネイティヴ語彙の語として使っているのは
主にベルギーのフラマン語(南部オランダ語)話者という事のようです。
で、その発音ですが、上のビデオからは
「ウゥーン・エルフ」とか「ヴォーン・エルフ」のように、
途中に声門閉鎖で区切りを入れている事が分かります。
これは何なのかというと、複合語の前要素と後ろ要素の境界です。
元々 woonerf という語は、
「住む、生活する」という意味の動詞 wonen(*1)と
「庭、中庭」を意味する名詞 erf から成っています。
*1 オランダ語の複合語規則では、
動詞由来の要素はその語幹が使われるので、
不定詞の wonen ではなく語幹の woon という形を用います。
このように複数の要素から成る複合語ですが、
オランダ語(北部オランダ語)では
要素間に区切りを入れずに連続して発音するようです。
woonerf の発音は資料が無いので何とも言えませんが、
例えば「蜜柑、オレンジ」を意味するオランダ語の
sinaasappel("chinese apple")という複合語は
途中に区切りは入れずに「シナザポー」と発音されます。
という事は、日本の建築学界や道路工学界、
地方自治や不動産業界で定着している
「ボンエルフ」というカナ表記は、オランダではなく
ベルギーでの発音が元になっているのかもしれません。
日本国内ではオランダ語に詳しい人が少ない(*3)ですから、
恐らく誰か一人の建築家が考えたカナ表記が
そのまま学会などを通じて広まったのでしょう。
*3 九州大学大学院の教授が書いた論文に、
woonelf という間違った綴りが使われていますが、
日本建築学会の学会誌にそのまま載ってしまっています。
おい査読!
ただ、ここで一つ疑問が残ります。
オランダ語でもフラマン語でも長母音と短母音の区別は
日本語と同様、かなりハッキリしていますから、
元々長母音だった語頭音節の母音が
カナ表記で短母音になってしまうのは不自然です。
語頭の w [ʋ] を「ヴォ」ではなく「ボ」で音写するのは
仕方無いにしても、長母音はそのまま保存できるはずですから、
カナ表記は「ボーン・エルフ」になるはずです
(声門閉鎖による区切りを無くせば「ボーネルフ」)。
音節の重さが過大になるのを回避したんでしょうかね。
「委員会」を実際は「いんかい」と発音しているように。
2014年3月25日追記
やっとオランダ人による発音資料が見付かりました。
英語のナレーションの中に一語だけ埋め込まれている
という特殊な音声環境ですが。
このクリップの1分35秒あたりからの、
... shared space, in the original "woonerf" concept.に、
[ʋoˑn.ʔɛɚf]
という発音が聞こえます。
前半の/oː/は長母音と言ってもかなり短かく発音されています。
注意しないと短母音と区別が付きにくいですね。
また、複合語の要素境界は明確に声門閉鎖で区切られています。
これなら「ボンエルフ」という表記にも納得できます。