2014年2月23日日曜日

『自転車の安全鉄則』のウソ (3)

疋田氏の主張をその著書で点検するシリーズ3回目。
今回は信号無視についての記述を取り上げます。



底本はこれ。
疋田智(2008)『自転車の安全鉄則』朝日新聞出版(第1刷)

まずは問題の部分を引用します。

p.52
ユーザー側のモラルのなさ、ルール遵守意識のゆるさ、その他が相まって、現在の自転車状況の混沌を作っているのは事実でしょう。なにより日本の自転車ユーザーには、信号を守らない人が多すぎます。

p.53
あの自由をムネとする(見方によってはかなりエー加減な)オランダ人だって、信号や進行方向はきっちりと守るのです。

日本のサイクリストは信号を守らない人が多すぎる、
オランダ人は信号を守っているという主張ですが、本当でしょうか。



オランダ人の信号無視

オランダでも赤信号を無視する自転車は、
【いる】か【いない】かで言えば、います。



3分32秒に、車の切れ目を狙って車道を突っ切る自転車が写っています。
また、歩道を走っている自転車も見られますね。


オランダ、アームスフォートの自転車レーン(fietspad)
一方通行だが、自転車が逆走している。
Google Street View より)

信号無視だけではありません。逆走も有ります。
私自身、オランダを旅行した時に見掛けましたし、
Street View にもたびたび写っています。



遵守率

では、信号無視や逆走をする人の数が違うのでしょうか。
日本については、たとえば盛岡市における調査結果が有ります。

元田良孝、宇佐美誠史、熊谷秋絵(2010)
通行方向・赤信号に関する自転車の交通違反の原因に関する研究
『交通工学研究発表会論文集』vol.30

この調査では、道路の形状にも依りますが、
きちんとルールを守っている自転車は皆無か、
多くて数パーセントしか観察されていません。

オランダについてはデータが見付けられなかったので、
とりあえずここでは疋田氏の主張に沿って、
オランダの方が遵守率が高いと仮定して議論を進めます。



人的要因だけか?

日本とオランダで自転車のルール遵守率が違うのは、
教育の仕方やモラルの水準が違うからなのでしょうか?
つまり、両国の違いは人だけなのでしょうか?

そうではないですね。

日本とオランダでは、自転車インフラの形が全然違います。
例えば、オランダの或る自転車用信号機は、
押しボタンを押してから遅くとも8秒以内には青に変わります。


待ち時間の短い横断用信号機


また、感応式制御を用いて、車が来ていない時は
常に自転車側を青にしている交差点も有ります。


「自転車側に青」がデフォルトの交差点


このように自転車を待たせないインフラが整っているなら、
サイクリストは敢えて信号を無視しようとは思わないでしょう。
(オランダ国内が全てこうなっている訳ではありません。)

逆に、日本のようにクルマの円滑な流れを優先して
自転車や歩行者を長時間待たせると、
信号無視の動機を強める事になります。



横断歩道での自転車の挙動

ところで、日本で信号を無視している自転車は、
具体的にはどういう動きをしているのでしょうか。

さっきの論文(元田、宇佐美、熊谷 2010)を
もう一度詳しく見てみます。

pdf p.1
(1) 横断歩道の信号機
押しボタン式信号機付横断歩道での信号無視を観測した。

// 中略

観測した地点には歩道はあるが、信号無視が明確な車道を通行する自転車のみを対象とした。車道側の信号が赤の時の自転車の停止、進行をカウントした(図3)。

論文には明記されていませんが、恐らくは単路の横断歩道です。

pdf p.2



数字が見えにくいので文字化しました。
  • 停止線で停止 0%
  • 停止線を越えて停止 5.4%
  • 止まらない 94.6%

圧倒的多数が信号を無視しています。
数字だけ見ると無法状態に思えますね。

しかし、道路という背景をフェイドアウトさせて
歩行者と自転車の動きだけを浮かび上がらせてみると、
実のところ、オランダとあまり変わりません。

構造分離型の自転車レーン(fietspad)が整備された
オランダの道路でこれを見てみましょう。

オランダ、アームスフォートの横断歩道
Google Street View より)

オランダ、アームスフォートの駅前通りです。
画面の左端の薄い灰色部分が歩道、
その右隣の薄い赤色部分が自転車レーン、
そして緩衝帯を挟んで黒いアスファルト部分が車道です。

信号機が無いですね。これなら信号無視は有り得ません(笑)

自転車は、歩行者がいれば
徐行するなり避(よ)けるなりすれば良い。
ただそれだけの話です。

日本の自転車だって、歩行者が渡っている所に
高速で突っ込むような真似はしないでしょ?
大多数のサイクリストは徐行するか一旦停止して、
ちゃんと歩行者の切れ目を選んで横断歩道を通過しています。

(ときどき事故は起こりますが。)

日本もオランダも、自転車の挙動はさほど変わらない。
ただ、日本ではインフラや規制の形が
自転車の自然な動きに沿っていないので、
形式上、「規則違反」に分類されてしまう。

私にはそう思えます。



十字路での自転車の挙動

十字路の場合はどうでしょうか。

元田、宇佐美、熊谷(2010)pdf p.2


  • 停止線で停止 2.3%
  • 停止線を越えて停止 55.3%
  • 止まらず左折 29.7%
  • 止まらず右折 6.4%
  • 止まらず直進 6.4%

これまた酷い数字です。
ルールを完全に守っているのは 2.3% だけです。

しかし、これも良く見れば、
自転車が本当に高いリスクを取っているのは
「止まらず直進」の6.4%だけです。

例えば、〈停止線を越えて停止〉した程度では
大してリスクは高まらない……というより、
信号待ちの間に車より遥か前方に出る事で
左折巻き込みや右直事故が起こりにくくなるので、
却って安全になるくらいです。

また、論文では詳しく書かれていませんが、
もし交差道路の幅員に余裕が有るなら、〈止まらず左折〉しても
交差道路のクルマに撥ねられる心配は無いのかもしれません。

自転車が交差点の手前から逆走(右側通行)していたなら、
〈止まらず右折〉も同じです。

(右折先の順走自転車にとっては危険な存在ですが。)

東京都文京区の千石一丁目交差点
この停止線は自転車にとって安全上の意味が無い。

では、オランダは十字路をどのように設計しているのか。

オランダ、アームスフォートの十字路
Google Maps より)

薄い赤色部分が自転車の通行空間です。
この交差点では構造分離型の自転車レーン(fietspad)と
視覚分離型の自転車レーン(fietsstrook)が混在していますが、
後者も交差点の直近では構造分離型に切り替わっています。

自転車の停止位置を見ると、交差する車道のギリギリ手前、
クルマの停止線より遥かに前方である事が分かります。

また、右折(日本の左折)する自転車は、
信号待ちせずに交差点を通過できる構造になっています。

つまり、日本では違法になる自転車の動きが、
オランダでは合法、かつ安全にできるという事です。


オランダ、アームスフォートの交差点
自転車の停止位置は画面左端、クルマは画面右端のさらに先
Google Street View より)

もう一つ別の交差点では、クルマの停止位置から
自転車の停止位置まで25mもの差が開いています。

もしこの交差点をクルマと同じ位置で信号待ちしていたら、
交差点の角に到達する前にクルマに追い付かれて、
左折巻き込みの危険が生じるでしょう。

停止線から交差点の対岸までの距離も長くなるので、自転車の速度では
信号が途中で黄、赤と変わってしまう場合も考えられます。



丁字路での自転車の挙動

最後に丁字路の場合を見てみます。

元田、宇佐美、熊谷(2010)pdf p.2



結果がくっきり分かれています。
信号を遵守したのは従道路を横切る必要が有った自転車ですね。
その反対側を走る自転車は信号を無視しています。
ここでも日本のサイクリストはリスクを適切に評価して行動しています。

もちろんオランダのインフラでは無意味な信号待ちはさせません。

オランダ、アームスフォートの丁字路
Google Maps より)



オランダの逆走自転車と対策

最後に一つ示唆的な事例を紹介します。
(情報源:Fiets Beraad

アームスフォートの駅前通り(Barchman Wuytierslaan)は元々、
一方通行の自転車レーンが車道の両側に設けられた構造でした。

1996年、駅前のバス・ターミナルの改築に伴って、
Barchman Wuytierslaan の北側の自転車レーンが一部撤去されると、
駅から西に向かう自転車は途中で車道を横断しなければならなくなりました。

ところが多くの自転車利用者が規制を無視して
南側の自転車レーンを逆走したため、
地元当局は2003年、北側の自転車レーンを撤去し、
南側の自転車レーンを2.0mから3.5mに拡幅した上で
双方向通行の自転車レーン(fietspad)に作り替えました。

オランダ、アームスフォートの自転車レーン
幅員に余裕が有るので、並んでおしゃべりしながら走れる。
ちなみに自転車の並走はオランダでは合法(RVV 1990, 3条2項)。
Google Street View より)

オランダでは自転車のルール違反が少ないのではなく、
ルール違反をしなくても良いように、
自転車の都合に合わせてインフラを改良している——

その事を雄弁に語るエピソードですね。

なお、自転車レーンを双方向化したら事故が増えるのではと
思われるかもしれませんが、この道路では1998年以来、
事故は一件も起こっていないそうです。



まとめ

以上見てきた事から分かるように、日本とオランダでは
自転車利用者の信号遵守率を単純に比べる事はできません。
インフラの違いという大きな因子にも目を向ける必要が有ります。

疋田氏の主張はこうした背景の違いを無視しており、
議論を過度に単純化しています。

この主張は、本来ならインフラの改良で解決できる問題を
利用者のマナーの問題と誤認させかねないという点で悪質です。
なぜなら、そういう認識はインフラの正常進化を阻むからです。

さらに、インフラの欠陥から目を逸らさせて利用者を糾弾する姿勢は、
「自転車にも免許制を!」と息巻く勢力を援護するようなものです。
これは疋田氏としても本意ではないのでは?



シリーズ一覧

『自転車の安全鉄則』のウソ (1)
『自転車の安全鉄則』のウソ (2)
『自転車の安全鉄則』のウソ (3)