これまでの記事はこちら。
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (1)
『自転車事故過失相殺の分析』の感想 (2)
さて、今回は台東区の合羽橋通り商店街で起こった事故です。
p.179
(4) 判決が認定した事実関係
「1 争いのない事実
以下のとおりの交通事故が発生した。
(一) 日時 平成8年5月27日午後4時15分ころ
(二) 場所 東京都台東区松が谷4丁目1番13号先
歩道上(以下『本件事故現場』ということがある。)
(マーカーと空白行は引用元に無し。以下の引用部分も同じ。)
なお、事故現場とされているこの住所は現在確認できません。
4丁目1番地は1~12号までしか無いようです。(何この怪談。)
p.179
被告は、平成8年5月27日午後4時15分ころ、
本件事故現場の歩道中央付近を、南側から北側に向かって、
自転車を運転して進行した。
本件事故現場は、にぎやかな商店街の中にあり、歩行者も多く、
商品が歩道上にはみ出して、陳列されていたり、
駐車自転車が置かれていたりして雑然としていた。
一方、原告は、本件事故現場を、北側から南側へ向かって歩いていた。
原告は、3、4メートル先を歩行していた長女(4歳)を注視しながら歩いていた。
原告と加害車両とは、相互に、相手を右に見る位置関係ですれ違った。
ところが、原告のジャケットの内ポケットの縫い目部分が、
加害車両の後部補助椅子右側部分に引っかかって、
原告は、1、2歩後退した後、転倒して、その衝撃で負傷した。
事故現場と思われる場所(判例記載の住所は存在しない。)
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さて、判決では
p.179
本件事故現場のような、にぎやかな歩道上を、
自転車を運転して、進行する場合には、
前方及び左右を十分に注視して、歩行者等との衝突、
接触がないように走行すべき義務があるというべきところ、
被告は、反対方向から歩行してすれ違った原告の動静を
十分に注視せずに、漫然と加害車両を進行したのであって、
右の点で過失があり、これにより、自車の後部補助椅子部分を
原告の上着に引っかけて、原告を負傷させたものであるから、
被告は、民法709条に基づき損害賠償義務を負う。
とする一方、
p.179
歩行者である原告にも、周囲の動静を十分に注視して、
自転車がすれ違うような場合には、衝突ないし接触を回避するよう
間隔を空けて進行すべきであるところ、
同伴していた長女に注意を注ぐあまり、
自己の周囲の動静を十分に注視しなかった落度があったというべきである。
として、原告である歩行者に50%の過失相殺を言い渡しています。
この判決の問題点は何でしょうか。今回も弁護士や裁判官が
見落としている点が無いか、じっくり検討していきます。
なお、以降では、分かりやすくする為に便宜上、
被告を「自転車」、原告を「歩行者」と表記することにします。
1. 人間の注意力の制約を無視している
この判例だけでなく、全般的に感じる事ですが、
どうも交通事故裁判の世界では、
- 交通参加者が常に最高水準の注意力を発揮している事
- それを常に最適な形で配分している事
全ての場面、全てのタイミングで、危険の前兆を
何一つ見落とさずに拾い上げるのが当然で、
一つでも認知エラーが有れば即減点というような……。
んな事できる人間がいるかよ!
ヒトの注意力は限られています。周囲全体を満遍なく見ようとすれば
一点一点に振り分けられる注意は浅くなりますし、一点に集中すれば、
その周りは視界に入っていても認知・処理されなくなります。
シングルコアのCPUのようなものです。
さらに、ヒトの注意力の容量にはCPUと違って波があり、
刻々と変動しています。常に最大の注意力を
維持し続けるのは、ヒトという生物の仕様上、不可能です。
また、注意力のリソースをどのように配分するかは、必ずしも
意志によって最適な形にコントロールできるわけではありません。
本件の歩行者の場合、長女が「3、4メートル先」という
やや離れた位置を歩いていたという事情があり、
母親として注意力のリソースが長女に重点的に割かれるのは
無理からぬ事と言えます。
それを取り上げて「落ち度」かよ。
自転車についても、元々歩行者や障害物の多い環境で、
注意を向けるべき対象が多く、最適な注意配分を実現するのは
難しかったと考えられます(*1)。それなのに、原告との二者関係だけを
取り出して「漫然」と評価するのは酷です。
*1 事故当時の混雑度合いや障害物の配置にもよりますが、
仮に自転車を降りて押し歩きしても、車体が歩行者に接触しないように
制御することさえ困難だった可能性も有ります。
これは大袈裟な表現ではありません。
私は事故現場付近の歩道上を自転車で通行した事が有りますが、
本当に狭く、雑然としています。
以上から、本件のそれぞれの当事者に対する過失認定には、
ルーレット的な要素が感じられます。
事故の瞬間に、
- 注意を向けるべき複数の対象のうち、
偶然、事故と関係ない対象を見ていた当事者や、 - 偶然、注意力の波の低い瞬間が当たっていた当事者が
だから、司法の場での議論は一見公平なようでいて、
甚だ不条理なものになってしまうんです。
2. 道路管理者の過失を無視している
では、このような不条理さを是正するには何が必要なのでしょうか。
本件について言えば、事故の当事者だけに着目して
過失割合を考えるのが間違いの始まりです。
例えば、自転車が車道上を安全に通行できる環境が有れば、
本件のような歩道上での事故はそもそも起こり得ませんから、
そのような環境(*2)を整備しなかった道路管理者の責任を問うのが
真の意味で公平な判断でしょう。
*2 現場付近の車道部分の幅員は合計で約14mあり、
自転車道や自転車レーンを設置する余地が
物理的に無かったとは言えません。
事故現場の道路は区道のようですから、管理者は恐らく台東区です。
台東区も法廷に引きずり出してくるべきでした。
また、もし台東区がこの道路で自転車道などの整備を計画していたとして、
計画段階で合羽橋商店街の店主たちが、「荷捌きの邪魔になるから」などと
反対したのであれば、店主たちの責任も併せて問うべきです。
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現場付近の車道環境。車道端を路駐車両が占拠しており、死角も多い。
逆走自転車も多く、自転車は車道上を安全に通行できない。
まとめ
「人を責めるな、仕組みを責めろ」という言葉が有りますが、
これを道路に当て嵌めて考えると、個々の交通参加者のエラーよりも、
エラーが起きやすい道路構造や、エラーが即事故に繋がってしまう
道路構造(*3)に目を向けろという事になります。
*3 今回は道路構造のみを挙げましたが、
「仕組み」には他にも、信号機の制御や道路関連法令、
交通安全教育や違反取り締まりの体制など、
多くの要素が関わってきます。これらは今後の記事で指摘します。
しかし、現在の交通事故裁判がやっているのはその真逆です。
道路構造の欠陥を見逃す一方、その皺寄せを事故の当事者に押し付けている。
道路管理者は責められないのを良い事に、適当な仕事に胡座をかく。
これではいつまで経っても危険な道路構造は改善されません。
交通事故裁判は、事故の当事者間だけで行なうべきではありません。
たとえ原告が主張しなくても、事故の背景に関わる人間を
自動的に巻き込む形で行なうべきです。
事務処理が追い付かない?
そうやって改善努力を放棄してきた結果がこれだよ。