一人の裁判官に負わされた案件の数が
人間の能力の限界を超えているとか、
最高裁が国を勝たせる為にあの手この手で
各地の裁判に介入してくるとか、
興味深いエピソードが大量に盛り込まれています。
そういえば、前に読んだ現実の判例にも、
そんな内幕を思い起こさせるものがちらほら有りました。
上巻 p.150
裁判官が自分の処理能力の4〜5倍の案件を
処理させられているという記述。
これを読んでいて思い出したのですが、
『自転車の過失相殺の分析』(*1)に出てくる判例に、
裁判官本人が自分の足で現場を見て回れば
こんなデタラメな過失認定はできないはずだ
と思えるものが有りました。
*1 『自転車事故過失相殺の分析』の感想(5)
うん。現場を見に行く時間なんて無かったんですね。
同様に、車道を走る自転車に特有の事故リスクを無視した
乱暴な判例が多かったのも頷けます。
裁判官本人は自転車に滅多に乗らないか、
乗ったとしても歩道しか走っていないのでしょう。
であれば、車道を走る自転車の立場に無理解なのも当然です。
わざわざそれについて勉強する時間も無いようなので、
車道走行時の案件についても、自分が自転車で歩道走行している時の
感覚を基準に判断してしまっているのでしょう。
下巻 p.87
男性裁判官は女性被告人に同情的な判決を出しがちという記述。
ああ、だからか。
自転車事故の判例でちょうどこれに合致しそうな例を思い出しました。
男性競輪選手と女子高校生が交差点で出会い頭衝突した事故(*2)。
*2 『自転車事故過失相殺の分析』の感想(7)
どちらも自転車に乗っていて、交差点で出会い頭衝突したという事故で、
判決文で認定されている事実からは、女子高校生側の過失の方が大きい
と読み取れるのですが、原審、控訴審ともにメチャクチャな論理で
5割以上の過失割合を男性競輪選手に言い渡していました。
結局、「女子高生に怪我をさせた」という事実が
裁判官の心証に一番クリティカルに効いたというわけですね。
下巻 pp.125-127
堤防が決壊したのは行政のせいではないという事にして、
住民勝訴が続出していた状況を転換しようとしたエピソード。
行政責任を否定する理由の一つとして、
そもそも堤防の計画段階から、流域の重要度が低い川では
甘めの災害予測を立てているから、という趣旨の台詞が出てきました。
有り体に言えば、大雨の時、田舎は水没しても構わんという事ですね。
(ただ、洪水は上流の山系からミネラル分を運んでくれるので、
この政策判断は田園地帯ではあながち間違いとも言い切れません。)
これで思い出したのが、荒川放水路の話(*3)です。
判例ではありませんが、行政の現実として面白いので紹介します。
*3 『荒川放水路物語』 絹田幸恵 1990 新草出版 pp.200-202
首都を洪水から守る為に開削された荒川放水路ですが、
実はその堤防の仕様は右岸(都心側)と左岸(郊外側)で異なります。
堤防の底の幅で比べると、
- 右岸 14.5m(= 8間)
- 左岸 10.9m(= 6間)
なので、途轍もない大雨が降れば、郊外側の左岸堤防が先に切れます。
露骨ですねー。
一応補足すると、これは完成時の状態であって、その後
河川事務所は何度も堤防の改修工事をしていますから、
もしかしたら今は両岸とも等しく強いのかもしれません。
(逆に、強さの差が広がっている事も有り得ますが。)
足立区や葛飾区の小学生は夏休みの自由研究などで
これについて調べてみると面白いかもしれませんね。