オカルトめいた言葉ですが、何の事は無い、
単なる「かもしれない運転」の話です。
小森 健太朗(2013)『神、さもなくば残念――2000年代アニメ思想批評』作品社
を読んでいたら、最終章にウスペンスキーという思想家の次元論で読み解いた
まどマギの論考が載っていました。
その中にこんな喩え話が出てきます。
pp.362-363
東西に走る通りを西から東に猛烈な速度で走っていく自転車と、
南北に走る通りを南から北へ猛烈な速度で走っていく自転車が
あったとしよう。
その二つの通りが交差する十字路は高い建物がたっていて
視界が利かず、自転車に乗っているものからは、
交差する通りを走ってくるものは見えない。
そのとき、その十字路に面した建物の上階から
下を見下ろしたものがいたら、そのものには、
東西方向と南北方向に猛スピードで走ってくる自転車が
目に入って、やがて間もなくぶつかるだろうことが見え、
かつわかってしまう。
ここでは、一直線にしか運動できず、左右の視界も無い
それぞれの自転車は、一次元的存在を象徴しているそうです。
さて、そんな自転車を
p.363
上から見下ろしているものは、二つの一次元自転車が角
——ある地点——で衝突するであろう未来をも看守することができる。
一次元自転車にとって角の先は見えない未来であるから、
時間次元にある、わからない事象なのに対して、
上から見下ろしているものには二つの自転車が衝突するという
近未来の出来事さえもが空間的に、
既知の事柄として把握できるのである。
このように、一次元存在からみれば、
三次元的に見下ろしているものは、未来のことがわかる
予知能力者になっている。
喩え話ではありますが、実際の交通安全の考え方にも
そのまま使えそうな都合の良さですね。
無事故ドライバーを例に考えてみると、
物理的な視点こそ地上に有りますが、
周囲の状況を俯瞰的に捉えているかの如く、
先読みして的確にブレーキを踏んだり、車線変更ができる。
上の論考の用語を借りれば、
三次元的な目を持っているといったところでしょうか。
逆に、すぐ目の前の光景を瞬間、瞬間でしか捉えられないドライバーは、
前方で渋滞が起こっている事に気付かず、目の前の車が加速したら
釣られてアクセルを踏んでしまう。その直後に前の車が減速すると
ブレーキが間に合わず、追突してしまう。
或いは、左後ろからバイクが来ているのに気付かないで
一気に左折してしまい、巻き込んで轢いてしまう。
こういうのは二次元的、一次元的な目と言えますね。
(一番酷いのは居眠り運転とか携帯見ながら運転で、
そもそも道路状況を見ていないからゼロ次元。)
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ここまでなら割と理解しやすいですが、
本書の論考ではなんと六次元まで出てきます。
どういう事でしょうか。
p.364
ウスペンスキーは、これと同様の類比的な関係が、
四次元を超えた五次元、六次元にもあるという。
ウスペンスキーによれば、われわれが時間として
とらえているものにも三次元があり、それぞれ
時間の一次元、時間の二次元、時間の三次元とされる。
これだけ言われてもまるで分かりませんが、
幸い、現代に生きる私たちは、『ドラえもん』や
『Steins;Gate』、『まどか☆マギカ』といった媒体を通して
易々とイメージできる環境にいます。
p.365
時間的に未来において生じることは、
通常の我々にとっては、予期しえない、知られない事柄にとどまる。
だが、タイムマシンで一〇年前の時間にもどったものは、
その後の一〇年を、空間的に、既知のものとして相対することができる。
これを再び交通安全の場面に翻案してみましょう。
現実には未来から過去に戻るという事は有りそうもない事ですが、
しかし、一方向に流れるだけの現実世界にも、
- 四季の巡り
- 曜日の循環
- 昇っては沈む太陽
- 信号の点灯サイクル
という状況がたくさん有ります。
そうした経験が蓄積されれば、
規則的な状況に限れば未来予測ができるようになるので、
(擬似的ではありますが)四次元的な目と言えるでしょう。
例えば、通勤でいつも決まった時刻に通る道では、
「次の信号はあと何秒くらいで黄色になるな」と見当が付くようになりますね。
この視点は割と誰でも持っていると思いますが、
問題は、四次元的な目を持った人でも、
イレギュラーな事態に遭遇すると、
三次元のレベルに引き摺り下ろされてしまう事です。
例えば、田舎で軽トラを運転するじいさんが、
「この交差点はいつも人が来ないから一時停止しなくても大丈夫」と飛び出して、人を撥ねてしまうパターン。
いわゆる「だろう運転」ですね。
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本書の次元論はさらに上へ進みます。
p.365
しかし、先に述べたように、時間を戻ってきたものにとっても、p.366
別の出来事が生じて、自分の知っていた時間軸と違う時間軸へと
スライドしてしまったら、もはやその時空はそのものにとっても、
既知の、空間的なものではなくなる。
仮にどのような時間軸に移行しようとも、
その世界を空間的に捉えられる意識があるとしたら、
それは、四次元の意識より一段上の、五次元の意識となるだろう。
本書ではこの五次元意識をほむらの例で説明しています。
p.367
時間遡行能力を得て、ある時間以降四次元的な把握が
できるようになった彼女は、何度も時間遡行を繰り返すうちに、
時間の分岐線をも知り尽くし、五次元方向までも
空間的に把握できるようになっていく。
これこそが、交通安全に関わる人々が
運転者に身に付けて欲しいと切に願っている視点でしょう。
目から入って来る生の三次元の景色に、
日々の繰り返しから得られる単線的な未来予測を加え(四次元)、
さらに、
「もしかしたら車の陰から人が飛び出して来るかもしれない」というような、起こり得るあらゆる可能性を重ね合わせる(五次元)。
ここまで来てやっと、運転適性の一要件を満たしたと言えるでしょう。
なんとまあ、五次元とは!
(「起こり得るあらゆる可能性」には、極論すれば、
- 沿道のビルが倒壊する
- トンネルの天上が崩落する
さすがにそこまで予想できてしまうと
本当の予知能力者になってしまいますね。
これはさすがに論外。)
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注意すべきは、ここまでの次元の議論は
どれも〈認識〉に限定されたものに過ぎないという事です。
運転というものは基本的に
- 認知(input)
- 判断(process)
- 操作(output)
五次元的な認知ができるだけでは駄目で、
それに応じた判断と操作が伴わなければ意味が有りません。
これが実際にできている人、
しかも常にできている人ってどれくらいいるんでしょうか。
少なくとも私はできてないです。
運転適性が有るというには程遠い。
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本書のまどマギ論考はそんな五次元の地平から
さらに高みへと飛び立って行きますが、
さすがにそこまでは手に負えないので、
ここで終わりにしておきます。