今日は教材付属の音声CDを聴いていて気付いた
オランダ語の異音と、そこから連想された
サンスクリット語(梵語)の音声規則について書いてみます。
CDに吹き込んでいる男性話者の発音で
Amsterdamというものが有りました。(track 31の最後)
[ɑmst̆əɾɖɑm]
一応画像でも貼っておきますね。
この発音で面白いのは、
[d] が反り舌音(retroflex)化している事です。
直前の歯茎弾き音(alveolar tap / flap)で
後方に移動した舌先が戻って来る前に
既に [d] の閉鎖フェイズに入ってしまってるみたいです。
どんだけせっかちなんだ。
この音声を聞いていて思い出したのが、
サンスクリット語の或る音声現象です。
語中で、反り舌系の r か s が先行し、
その後に n が来ると、n も反り舌音化するというものです。
菅沼晃(1994)
『新・サンスクリットの基礎[上]』
平河出版社 第6刷(2007)
p.70
これはsandhi(日本語では「連声」)と呼ばれる音声変化の一種で、
その発生条件は紀元前の文法学者、パーニニが既に定式化しています。
(その規則はअष्टाध्यायी(アシュタディヤーイー、‘八章’)という
作品として、韻文の形でまとめられていますが、
リズムの都合上、重要な語句までバッサリ削られ、
文が高密度に圧縮されています。)
r/s と n の場合は、間に別の音素が挟まっても良く、
r/sとnが結構離れている場合でも連声が起こるので、
純粋な順行同化とはちょっと違うようです。
サンスクリット語を学習していた時は、
この連声も含め、何十種類も有る連声規則が
なぜそうなっているのかが感覚的に分からなくて、
只管暗記するだけだったのですが、
(というか暗記すらせずに
自作の連声表と毎回にらめっこでしたが)
今日、オランダ語の早口の音声を聞いて
幾つかの連声規則はスッと理解できました。
サンスクリットのsandhiの規則群の中には
- 人間の発声器官の制約に基づく必然的なものと、
- 必ずしもそうではない、言語に固有の慣習的なもの
猛烈な早口で調音器官に無理をさせて発音してみると、
なるほど、確かにそうなるわ
と納得できるんです。
さすが、タブラの超高速打奏を口唱で暗記する国です。
インドの凄さはそれだけではありません。
サンスクリット語の表記に使われるナーガリー文字は、
この変化後の発音を表記するという特徴が有ります。
(卑近な例で言えば、
と表記するようなものです。)
- 自転車を「じでんしゃ」
- 洗濯機を「せんたっき」
- 体育祭実行委員会を「たいくさいじっこーいんかい」
音を表すという点ではアルファベットやひらがなと同じ
表音文字ですが、ナーガリー文字の「表音」の精度は
それらを遥かに凌駕しており、文字というよりは
寧ろ音声記号に近い性格を持っています。
(その「表音」精度へのこだわりは、
異音としてしか存在しない音声に
わざわざ専用の文字を用意するほど徹底したものです。
ただこれは、音声体系の対称性を重視して
隙間を埋めるように文字を追加しただけで、
そうではない特殊な文字は定着しなかったようですが。)
IPA(国際音声記号)が考案されたのは19世紀末ですが、
ナーガリー文字が普及したのは10世紀ごろ。
実に1000年近くも先に登場していたわけです。
この点でもインドはぶっちぎりですね。
翻って、現代の語学書で [ ] 囲みで示される音声記号が
音素表記にすらなっていない例を見ると、
人間の能力も随分落ちたものだと思わされますね。