荒川放水路では、かつて数多の命が失われました。
かつて東京近郊にも農村地帯が広がっていた頃は、
大雨で氾濫した荒川は、秩父山系のミネラル分を運んで
田畑に豊作をもたらしてくれる存在でした。
しかし近代に入って流域の宅地化や工業化が進展すると、
人は洪水被害を許容できなくなり、明治の末、
岩淵から海まで人工の放水路を開削する計画が持ち上がります。
その途方も無い巨大プロジェクトの陰で、
人々にどのような運命が降り掛かったのか、
体験談や記録を丁寧に集めた本が有ります。
『荒川放水路物語』 絹田幸恵 1990 新草出版
放水路建設以前の生活の知恵や、
建設に伴う牧場の牛の大移動、
立ち退き住民への補償金が預けられた銀行の相次ぐ倒産や、
放水路を計画した技師の波乱の人生など、
興味深いエピソードが満載の本です。
今回は、その中から死者に関するエピソードを
要約して紹介します。
p.118
建設予定地の中に最後まで住んでいた貧しい一家の少年が
放水路の工事現場で働いている時に建設機械に轢かれて死亡。
p.124
何年にも亘る工事の期間中、暴風雨や高潮がたびたび現場を襲い、
浚渫船や機械が流されて作業員が死亡。
p.144
土手の上の仮設小屋で雨宿りをしていた作業員たちが
ツルハシを持って外に出た途端、雷の直撃を受け死亡。
p.146
放水路は城郭の壕のように幾つかの区間に分けて掘られ、
それぞれの区間に雨水や湧き水が溜まって池のようになる。
近所の子供たちはそこで泳いで遊ぶが、
機械で掘った池は深くて掴まるところが無く、溺れて死亡。
他の子供たちは別の場所で泳いだ。
p.179
池の水面は温かいが、放水路の建設前に井戸が有った場所は
冷たい水が噴き出しており、泳いでいると急に水温が下がる。
このせいで心臓麻痺を起こす子供もいた。
pp.172-173
放水路建設に参加していた朝鮮人労働者たちが、
関東大震災の時に悪質なデマを流され、
土手の上に集められて虐殺される。
p.178
放水路が完成するまでは両岸の行き来ができるように
仮設の狭い橋を架けていたが、ここを車で通った若い夫婦が
車ごと橋から落ちて死亡。
p.244
戦後、自動車の急増に合わせて橋を増設する事になり、
川の中に橋脚を作る作業をしていたところ、
水止めの鉄板が突然倒れ、中にいた作業員が死亡。
荒サイを走る時、
過去のこうした出来事に
思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
景色の見え方が変わって
新鮮な体験ができると思いますよ。