2013年10月1日火曜日

関宿城博物館の感想 (2)

関宿城博物館

博物館を見学した感想の続きです。




第2展示室

私は江戸川からアクセスしたのでちょっと意外でしたが、
関東平野の治水をテーマにしたこの博物館では、
利根川の歴史にも大きなスペースが割かれていました。

第2展示室では、元々東京湾に注いでいた利根川の流れを
人工的に東に変えて、銚子に向かわせるという
一大事業について展示していました。

この事業は、江戸を水害から守るだけでなく、
物流の上でも大きなインパクトをもたらしたようです。

利根川が銚子に繋がるまでは、東北からの船は
波の荒い外房を通る危険が有りましたが、
銚子から内陸に入って江戸川経由で江戸に行けるようになると、
物流の大動脈として発展したそうです。

---

河川の閉鎖や付け替えは長い年月を掛けて行なわれましたが、
その最初の一歩となったのは江戸時代の直前、
1594年の会の川(埼玉県羽生市)の締め切りだったそうです。

その後、1600年代前半に幾つもの川を開削し、
利根川は大きく流れを変えます。

同時期には荒川も流れの付け替えが行なわれていますから、
江戸幕府にとっては、関東一円を見渡した上での
水害対策の一環だったのでしょう。

ちなみに現在の江戸川も関宿から埼玉県松伏までは
庄内古川のバイパスとして人工的に開削された水路です。

荒川放水路と言い、江戸川と言い、サイクリストは
つくづく江戸・明治時代の仕事の恩恵に与ってますね。

---

この時代の治水技術には既に現在に通じるものも有ったようです。
洪水を防止する技術として、関東式では川沿いに遊水池を設けたり、
紀州式では川筋を直線的にして水を一気に流そうとしていたようです。

直線的な河川は生物多様性の観点からは好ましくないようですが、
エコ文明と言われる江戸時代の時点で既に、自然をねじ伏せるような
やり方が有ったというのは意外です。

---

当時、工事や護岸で水流を弱める為に大量の杭を立てていましたが、
これは川底が柔らかい下流部でしか使えません。
川底が大小の石で覆われている上流部では代わりに、
蛇籠(じゃかご)という道具が使われていました。

蛇籠(手前)

竹で編んだ籠の中に、川の石を詰め、その籠を複数個並べて
川の中に固定するというもので、固定方式によって
笈牛とか菱牛という名前が付けられています。

利根川と江戸川の分岐点は上流からの水の流れが
川岸を直撃してしまいますから、損耗を防ぐ為に
当時からこうした工作物で水流を緩和していたようです。

---

江戸川水閘門ができるまでは、「棒出し」と呼ばれる
短い堤防が、両岸から川の中へ突き出す形で設置されていました。
江戸川への水の流入量を抑える為のもので、
これもやはり下流の江戸の防衛が目的のインフラです。

ただ、下流部の安全の代償として、関宿周辺では
棒出し設置以前より洪水が増えたそうです。
何ともあからさまな優先順位です。

地元の農民が叛逆して棒出しを破壊、
なんて事件は起こらなかったんでしょうか。

ちなみにこの棒出しの遺構(?)は
水閘門の横の中之島公園で見られます。

---

江戸時代には、利根川の付け替えに限らず、
印旛沼と手賀沼の干拓事業も複数回試みられたそうです。

水害対策、新田開発、水運などが目的だったそうですが、
工事現場を相次いで襲った水害や、推進派の老中の失脚で
結局失敗に終わっています。

(当初予想より工事が難航し、
労役させていた地元農民が反発した事も背景。)

そんな歴史が沈んでいる場所で現在は
トライアスロン大会が開催されているんですね。

---

次の記事に続きます。

関宿城博物館の感想 (1)
関宿城博物館の感想 (2)
関宿城博物館の感想 (3)
関宿城博物館の感想 (4)