2013年2月16日土曜日

自転車を撥ね殺したトラック運転手が不起訴に

マサチューセッツ州、ボストンでの話です。
The Boston Globe紙の記事を要約します。

トラックが自転車を撥ね殺し、そのまま逃亡した。
ハッキリとした証言と証拠映像まで揃っていたのに、
トラックの運転手は大陪審で不起訴処分に。

自転車の安全を軽視する世間の風潮を映した陪審員たちの判断に
地元のサイクリストたちは怒りと悲しみに震えている。

事故を写した映像では、トラックが自転車を強引に追い越そうとして
側面から自転車に衝突。証言に拠れば自転車側には何の落ち度も無かった。

サイクリストは、自分たちが地域社会に守られているかどうか、
陪審員をリトマス試験紙として見ている。





アメリカは何かと極端に出るので、問題の形が分かりやすいですね。
陪審員たちの判断が法律の趣旨さえ掻き消してしまっている今回の例で、
「正義は結局、人々の意識の在り方で決まる」という社会の原理が
浮き彫りになっています。以下も同じ記事からの要約です。

マサチューセッツで日常的に自転車に乗っている住人の割合は
数パーセント台で低迷している。

殆どの陪審員は自転車を嫌っていて、車側に共感しがち。

どうせ自転車側が無茶な運転をしたんだろうという先入観が
陪審員たちの判断に這入り込む。

自転車が赤信号を無視したり、手信号を出さなかったり、
四、五人で横並びになって走り、車の通行を妨害したりする度に、
モータリストの
「自転車は車道を走るべきではない」
という信念を堅固にしてしまう。

さて、このケースを念頭に日本の現状を見直してみると、
アメリカほど極端ではないにしろ、同様の状況が有る事に気付きます。

自転車に乗る人の比率はアメリカよりは高いものの、
無秩序で向こう見ずな運転をする人があまりに多く、
ドライバーの反感を買っています。

安全確認をせずに車道に飛び出したり、
何の予備動作も無く唐突に進路変更をして
車に撥ねられ、死んでしまう人が後を絶ちません。

こうした背景からか、

東京都は自転車の通行空間を原則として
歩道上に整備すると強硬に言い張っていますし、

現場の警官が事故を科学的に検証せず、自転車が悪いという
先入観を元にしてストーリーを組み立ててしまう事も有るようですね。



ドライバーが自転車の安全や法律の規定を
軽視ないし無視する風潮もまだまだ根強く残っています。

クラクションやアクセル乱打で煽ったり、
危険な局面で強引に追い越したりといった運転行動を受ける事は、
車道を走る自転車にとって日常茶飯事になってしまっています。



記事ではまた、
近年、警察は車対自転車の事故を深刻に受け止めるようになってきている。
と、希望を感じさせる動きも伝えています。

その理由を想像するに、アメリカを含む世界各地で自転車を交通手段として
見直す動きが徐々に広がってきている事が、恐らくは有るでしょう。

自ら自転車に乗って車道に出れば、少なからぬ数のドライバーが
幼稚で傲慢で危険な振る舞いをしている現実がハッキリ認識できます。

危険を認識する人が増える事で、その危険を
生み出す行為に対する視線も厳しくなるのだと考えられます。



今回の報道から得られる教訓をまとめると、
サイクリストを守る社会を実現するのに必要な事は、


の三点になりそうです。



ちなみに、冒頭に出てきた大陪審(grand jury)は
皮肉にもGJと略せます。