2013年2月20日水曜日

恐るべきロシア語会話集

語学教科書の会話集といえば、無害でちょっと滑稽な、

「これは何ですか?」
「これはペンです」

のようなものが定番ですが、
ロシア語の会話集は一味違いました。




『漁業ロシア語―会話と用語―』という本(*)が有ります。

* 木元謙二(著) 1985 ナウカ

ロシアと日本の間の海域で操業する漁師さんの為の会話集なのですが、
ロシア人が漁船に乗り込んできて臨検(inspection)を行なう場面では
かなり緊迫した状況での例文が出てきます。


p.135
――これはあなたの浮子ですか?

いいえ、私達の浮子ではありません。

浮子は流し網などに取り付けて使う物で、
使い方には細かい規則が有るようです。



p.147
――ここがどこか知っていますか?

国後島沖です。

――いいえ、ここは沖合ではなくソ連の領海です。

一挙に臨場感が盛り上がってきました。



pp.150-151
――貴船はなぜ逃げようとしたのですか?

私達はどうして停船命令にそむくようなことができるでしょうか。

――それなら、なぜわれわれの船を見て逃げようとしたのですか?

全く気がつきませんでした。

信号に気がつかなかったのです。

信号には気がつきましたが、停船命令だとは思わなかったのです。

決して逃げようとしたのでは、ありません。

曳網中でしたので停船できませんでした。

貴国水域外を航行中ですから、停船する必要はないと思いました。

切羽詰まって言い訳が段々苦しくなっていきます。



pp.153-154
――あなたのいうことは正しくない。

――ほんとうのことをいいなさい。

ほんとうのことをいっています。

――うそをいってはいけません。

――何ごともかくしてはなりません。

何もかくしてはいません。

私はすなおにすべてを答えております。

手に汗握る攻防。そして最後は……



p.155
拿捕しないでください。おねがいします。

ひらがなで書かれた「おねがいします」が切実すぎて、
もう精神の均衡の限界といった印象です。



一方、不正取り締まりとは関係の無い、
和やかな雑談の例文も載っていました。
日本語の言い回しをロシア人に説明しています。


p.224
「肩振る」。これをロシア語「カチャーチ プレチャーミ」
と訳すことができます。しばしば人々は肩をゆすりながら話し合います。
それで日本の船では、「肩振る」は「話し合う」ことを意味します。

え?

全くの初耳。その発想は無かった。
東北・北海道の方言なのか、漁師仲間の通語なのか。

他にも独特な表現が幾つか例示されています。
ロシア語会話集ですが、寧ろ日本語の資料として
価値が有るのではないでしょうか。



趣味の話題で、カメラ自慢の例文も載っていました。

p.229
――あなたのカメラは何というカメラですか?

ニコンです。

――このレンズの明るさはどれだけですか?

1.8です。

結構良いレンズですね。
ただ、このF値をロシア語で発音するのは難儀しそうです。

1.8 (одна целая восемь десятых)
アドナー ツェーラヤ ヴォーセミ ジェシャートゥィフ

もどかしい。


ちなみに、或る言語が数を簡潔に表現できるかどうかで、
子供の数学の成績や学習速度に違いが出るそうです(*)。
ロシアの子供は苦労してそうですね。

*
『素晴らしき数学世界』 アレックス・ベロス(著)
田沢恭子、対馬妙、松井信彦(訳) 2012 早川書房
pp.97-99